「長屋王家木簡」の“若翁”について 2021.12.03

 倉西裕子氏は、その著『聖徳太子と法隆寺の謎』(平凡社・2005年・P.148-150)の中で、長屋王家邸出土木簡に記載される「若翁」を、東野治之氏の説に従い「ワカタフリ」と読んでいるが、「若翁」とは「若公」のことであり、「ワカギミ」と読むのが妥当であろう。

  *【翁(オウ)】:おきな。男性老人の尊称。 「説文段注」に「按俗言老翁者、假(仮)翁爲公也。」と言い、「翁」は「公」とも書くという。 『日本書紀』に「有一老公(おきな)與老婆(おみな)」(神代上第八段本文)とある。

 また彼女は同書の中で、この称号が付くのが、「いずれも長屋王の幼年の子供達」と言われるが、そうであれば尚のこと「わかぎみ(若公)」であろう。

 

「翁」に対する倭訓の「たふれぬ」を言い出したのは、東野治之氏だと思うが、彼は「新日本古典文学大系」(岩波書店)の月報319893月・代2巻附録)で、「『字鏡集』には「翁」にタフレスの訓が見える。」と言い、 『長屋王家木簡の研究』(塙書店・1996年)では、「永正本の『字鏡抄』には「翁」に「タフレヌ」と言う訓が存する・・・」と、微妙に訓を修正しながらも主張した。これを承けて、森公彰氏は、『長屋王家木簡の基礎研究』(吉川弘文館・2000年)で、 「『字鏡抄』の「翁」の訓「タフレヌ」は別の文字に対する訓を誤って記したものである可能性があるとの批判もあり、また木簡に「智 珍努若翁・・・智努若王」との習書が見えるので、「若翁」は「若王」と同じであるとする説も呈されている。しかし『音訓立篇』天下第二十九羽篇にも「翁」訓の一つに「タフレヌ」があり、また「王」をことさらに画数の多い「翁」と書く理由は不明であるので・・・」と煮え切らない主張をなさる。そもそも「翁」の訓の「たふれぬ」の意味は「倒れる」であり、「若王」とも書かれる貴人の子供達に対する呼称としては相応しくない。

  『日本霊異記中巻第十』に「躃地而臥。【注】躃:太布禮奴(タフレヌ)」とあり、「躃」の字訓に「タフレヌ」とある。漢語の「躃(ヘキ)」は「たおれる」である。(学研漢和大字典)

  *「【たおれる】:立っている物が、自分の力でささえ切れなくなって横にな る。ころぶ。」(学研国語大辞典)

この「タフレヌ」は、恐らく転びやすい高齢者イメージから出た「翁」の「引伸義」であり、長屋王家邸出土木簡の「若翁」の訓には適切ではない。幼児の死亡率が高かった古代で、子の無事な成長を願い、「公(きみ)」や「王(きみ)」の代わりに、長寿のイメージもある「翁」の文字を借用し、画数が多くとも縁起を担いで「若翁」と書いたものと思う。

 

<補足

「ワカミタフリ」(『隋書・倭國傳』)について

 東野治之氏や倉西裕子氏が主張したいのは、「若翁」ではなく、「利歌彌多弗利」(隋書・倭國傳)のこの解釈であろう。「利」については、倭語に「ラ行」で始まる言葉がないので、倭語から「利」は「和」の転写ミスであると校勘できる。よって、元文は「和歌彌多弗利」であろう。お二人はこれを中世頃の「翁」の訓である「タフレヌ(倒れぬ)」を当てて、「ワカ・タフリ」と読みたいようだが、これは原文を無視した解釈と言える(「若く倒れ」では意味不明ともなる)。当該の言葉は七世紀初頭の漢語や倭語の古語であり、上代特殊仮名遣いが残る奈良朝以前の文献内の言葉を根拠にして、意味を推定する必要があるであろう。一番近い当時の言葉は、「わか・みた(ま)・ふり」であると思われる。これを当時の漢字に直すと、「若皇霊・振(わかみたま・ふり)」となる。

 *(ま)は私的推定補足。

  *「皇霊之威(傍訓:みたま・の・ふゆ)」(景行天皇紀)

 *阿我農斯能  “美多麻”々々比弖  波流佐良婆  奈良能美夜故尓  佐宜多麻波祢(万葉歌882

 (我が主の “みたま” 賜ひて  春さらば 奈良の都に 召上げたまはね)

 *ふり:振り、振る舞い。身ぶり。ようす。姿。格好。(学研古語辞典)

 *阿麻社迦留  比奈尓伊都等世  周麻比都々  美夜故能提“夫利”  和周良延尓家利(万葉歌880

 (天離る 鄙に五年 住まひつつ 都のて“ふり” 忘らえにけり)

 現代では「霊」と言うと殆どが肉体を出て二度と戻らない「死霊」を意味するが、古代ではそうではないであろう。

  *「霊魂ハ、タマ又タマシヒト云フ。霊魂ハ、不滅ト信ゼラレ、其人体ニ存在スル間ヲ生ト云ヒ、其出離シタル後ヲ死ト云フ。因テ又霊魂ニ、生霊、死霊ノ別アリ。」(「古事類苑」・人部・生命)

 

「日本律令」に、中国のような先祖の死霊を祭る「廟(みたまや)」の概念が無かったように、古代日本では「死霊」を祭る慣習はあまり見られない。