「蘇我入鹿暗殺事件」のその時 2013.1.31(2021.11.8補訂)
「大化の改新」の発端となる事件は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(鎌足)等による宮中での蘇我入鹿暗殺事件です。『日本書紀』に記述される「乙巳の変(645年)」(皇極四年六月八日)のその時の文には、緊迫感が漂いますが、はたして、正確に理解されているのだろうかと言う疑問があります。「漢文の読み下し」まではよいとしても、その解釈には、おかしいと思えるものもあり、現代語訳に至って、それが鮮明となります。以下に宇治谷孟訳『日本書紀(下)』(1988年・講談社学術文庫)の訳文と原文を載せます(番号は私が付けました)。
①入鹿は御座の下に転落し、頭をふって、「日嗣の位においでになるは天子である。私にいったい何の罪があるのか、そのわけを言え」といった。
(原文):入鹿轉就御座、叩頭曰、「當居嗣位、天之子也。臣不知罪。乞垂審察。」
②天皇は大いに驚き中大兄に、「これはいったい何事が起こったのか」といわれた。
(原文):天皇大驚詔中大兄曰、「不知所作、有何事耶。」
③中大兄は平伏して奏上し、「鞍作(入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか」といった。
(原文):中大兄伏地奏曰、「鞍作盡滅天宗、將傾日位。豈以天孫代鞍作耶。」
一見して宇治谷氏の現代語訳は、原文にそっていない部分が多く、訳者の思いこみに流されている感があります。あらためて、試案でありますが、ここに、藤原氏の『家伝』等を援用して、原文にそった訳注を試みたいと思います。
「藤原氏の『家伝』」について
「蘇我入鹿暗殺事件」の当該記事について、『家伝』には、『日本書紀』と同じ よな記述があります。これはどちらかがどちらかを参照したと言うより、両書とも情報源を同じくすると思えます。これは、『家伝』の記事には、『日本書紀』より詳細な情報があり、また『日本書紀』にない「白鳳」の年号を使用している事からもこれは明らかでしょう。
現存する『家伝』は、その上巻の巻首に「大師」(太政大臣の唐名)と署名があり、これは藤原仲麻呂と推定され、これにより成立年は、天平宝字四年(760)以降とされます。しかし、彼も「暗殺事件」の生き証人でありませんので、あの緊迫した文の情報源は他にあると思えます。大宝令の職員令式部省の職務の義解に「謂、有功之家、進其家伝」とあり、「乙巳の変」の計画者である中臣鎌足(後に藤原鎌足)は、当時の朝廷で第一の功労者で、恐らくこの当時に初期の「家伝」が編纂されたであろうと思われます。
「試案」①
<原文>
入鹿轉就御座、叩頭曰、「當居嗣位、天之子也。臣不知罪。乞垂審察」。
<訳文>
入鹿、転びながら天皇の座のもとにつき、(中大兄に向かって)土下座して、「まさに、あとつぎの位に居すべしは、天皇の子(古人大兄は)なり。臣は罪を犯さず。(皇極天皇に向かって)「なにごとも明らかにされますことを」といった。
<語注>
【轉就御座】:宇治谷氏は「入鹿は御座の下に転落し」と訳すが、「轉(転)」の意味は「ころがる。ころぶ。」であり「転落」の意味はない。この前に「傷其一脚」とあり、入鹿は片足を切られているので、転がるようにして、天皇の座のもとについたのであろう。 ここの「就御座」を井上光貞氏の訳文『日本書紀』(昭和六十二年・中央公論社)では、「天皇の御座にすがりつき」と訳すが、「就」とは「就、因也」(爾雅)、「就、従也」(玉編)であり、「すがりつく」より、「天皇の御座に身を寄せて、安全を確保しながら」と解釈した方が原文の文意に近い。
【叩頭(コウトウ)】:「叩頭」とは「額を床や地面につけて敬礼する。ぬかずく」。俗に「土下座」。「叩頭;伏身跪拜,以頭叩地。為古代的最敬禮<身を伏して跪拜(キハイ)し、頭を地につける。古代の最敬礼である>」(漢典)。
宇治谷氏や井上氏の訳文「頭をふって」では、頭を縦に振ったのか、横に振ったのかその状態が不十分である。また入鹿が乱入者に土下座したと言うことは、乱入者が「中大兄皇子」であり、その理由も認識したうえでの行動と言える。入鹿が聖徳太子の一族(山背大兄王等)を襲撃し、皆自死させた事に対して、世の批判が強く、入鹿本人もその批判を自覚していた。そのことは、自身周辺の警備を強めた記述からもうかがえる。
『日本書紀』では、事件後に、「説第二謡歌曰;(中略)此即上宮王等性順、都無有罪、而爲入鹿見害、雖不自報、天使人誅之兆也<(中略)これは(この謡歌は)即ち、上宮王等の人柄は順にして、みな罪が有ること無くして、入鹿のために害され、自ら報復しなくとも、天が人を使って誅する兆し也>。」と言い、『家伝』には、「人々喜躍、皆称萬歳(中略)大臣曰、是依聖徳、非臣之功<人々は喜び踊り、皆万歳を称する(中略)大臣(鎌足)曰く;是は聖徳太子に依るもので、臣の功に非ず>。」と言う。これらは入鹿に天罰が下ったことを世人が喜ぶ記述である。聖徳太子の王(みこ)らを襲撃し、自死に追い込んだ入鹿に対する反感が、いかに強かったかの表れであろう。
【嗣位(シイ)】:あとつぎの位。太子。「中大兄皇子」は父の舒明天皇の時には皇太子位にあったが、母の皇極天皇が即位した時点で、その地位をおろされ、替わりに蘇我氏の娘を母とする「古人大兄皇子」が皇太子位の処遇をえていた。
【天之子】:天皇(天子)の子。これを「天神の子」と広義の意味に取れば、臣下の多くも天神の子孫であり、文をなさない。「天」とは「天、君也」(爾雅・釋詁)、「天、謂王者。」(孟子注)。これによって「天子、天皇の子」と狭義の意味にとる。古人大兄皇子も中大兄皇子も二人とも腹違いであるが舒明天皇の子である。事件の当日に「天皇御大極殿、古人大兄侍焉。」とあり、この時が、古人大兄の太子としての公的デビューにあたるか。
『家伝』には「當居嗣位、天之子也。」の語句は無い。岩波版の『日本書紀』の当該頭注に、『家伝』を指して「この方が自然。」と言うが、この文言が無ければ「臣不知罪」の「罪」が何に対してなのか不明となる。
最後に、入鹿の発言が「誰に」向かって発せられたかでありますが、「當居嗣位、天之子也。臣不知罪。」までは、乱入した「中大兄」に対してであり、あとの「乞垂審察」は、「乞垂・・・」の用語使いから皇極天皇に対してである。
「試案」②
<原文>
天皇大驚詔中大兄曰、「不知所作。有何事耶」。
<訳文>
天皇、大いに驚き、中大兄に、みことのりして、「何をする! 何事か!」と。
*ここに、「語注」の必要性は感じませんが、岩波版の読み下し文を参考に載せます。
「天皇大きに驚きて、中大兄に、みことのりしてのたまわく、知らず、するところ、何事ありつるや。」
「試案」③
<原文>
中大兄伏地奏曰、「鞍作盡滅天宗、將傾日位。豈以天孫代鞍作耶」。
<訳文>
中大兄(殿下に降り)は地に伏して、天皇に申して曰く、「鞍作(入鹿)は、ことごとく皇族を滅ぼし、まさに国家を危うくしようとしています。なぜ(天皇は)天孫を鞍作(入鹿)に代えるのでしょうか!」と。
<語注>
【伏地】:「地に伏す」で、中大兄は殿中に乱入したが、天皇の一喝で、殿下にいったん降りた。
【奏(ソウ)】:もうす。「事がらの首尾をまとめて、君主にもうしあげる。」(学研漢和大字典)。
【盡滅(尽滅)】:ことごとく滅ぼす。「尽」は動詞「滅」を修飾する「副詞」で、「ことごとく」。ここでは、太子一族のほぼ全員の滅亡を指す。岩波版『日本書紀』の読み下しでは、「尽(つ)くし滅して」と「尽」を動詞として読むが、これでは何を“尽くす”のか不明となり、誤読と言える。「漢語漢字」は、単独では意味や品詞が未定で、文に入って、その位置などで初めて確定する。楊樹達はその著『高等国文法』で「其詞之職分、全視所居之位置而定<その詞の職分は、置かれた位置を全て視て定まる>」と言う。
【天宗(テンソウ)】:皇族。ここの「天」は<語釈-①>と同様に狭義の意味で天子、天皇。「宗」は「同祖為宗也。」(左伝・昭公三年・注)で「一族」。よって天皇を祖とする一族。具体的には入鹿が滅ぼした上宮太子(聖徳太子)の一族を指す。井上光貞氏の訳文は「皇族を滅ぼしつくし、皇位を絶とうとしています」とするが、こうなると誤訳に近い。入鹿が滅ぼした皇族は、上宮太子の一族(山背大兄王等)だけである。
【日位】天皇。即ち国家。「律」に「一日、謀反。謂、謀危国家。・・・不敢指斥尊号。故託云国家。」(八虐)
【天孫】これも狭義の意味で、天子、天皇の孫。具体的には、用明天皇の孫に当たる山背大兄王等を指す。宇治谷氏の訳では「鞍作をもって天子に代えられましょうか」と言うが、これは明らかな誤訳である。また入鹿の目的は、「皇極二年十月条」に「蘇我臣入鹿獨謀、将廃上宮王等、而立古人大兄、為天皇。」とあることであり、山背大兄王を滅ぼして、古人大兄を皇位につけることである。恐らく当時の「中大兄皇子」は、年も若く、あまり注目されていなかったのであろう。
【豈以天孫代鞍作耶】読み下し的には「あに、天孫(山背大兄王達)をもって入鹿にかえんや」。ここの「以」は対象を示す介詞(前置詞)であり、日本語の格助詞「を」に訳した。当該文の文意は、「山背大兄王等を滅ぼしたその入鹿を重用している」皇極天皇を諫めることである。鎌倉時代の「『多武峯縁起』、別名;『大織冠伝』(柳原家資料)」(群書類従本)にも「豈以天孫代鞍作乎。意指弑山背大兄王達也」と記す。また『家伝』には、「皇后臨朝、心不安(中略)遂誅山背大兄於斑鳩之寺<皇后は朝廷に臨み、こころ安からず(中略)ついに山背大兄を斑鳩の寺に誅す>。」とあり、皇極天皇が主犯もしくは共犯であることを示唆する。
<余談>
「皇極天皇の退位理由」について
不可解であった皇極天皇の初めての生前退位もこれで明確になります。彼女は、聖徳太子の一族襲撃の責任を取ったと言えます。
「天智天皇の称制」について
天智天皇は、母親が重祚して「斉明天皇」となり、その母が亡くなった後も、すぐに即位せず、称制(称制とは、皇帝の代理制)をとります。これについては色々な説がありますが、『日本書紀』本文には、「素服称制」(天智天皇即位前紀)とあります。
「喪」について『荀子』「禮論編」に、「喪禮者、以生者飾死者也・・・故如死如生。如存如亡。」とありますように、彼の素服称制は、母帝が亡くなっても「生きているが如く」扱った喪礼によるものと言えます。母帝への恋慕の情で、喪に服するのは親孝行と言えますが、それが六年に及べば尋常ではありません。つまり今風に言えばマザコンと言えましょう。天智の亡き母帝を偲ぶ歌に、
「君が目の 恋しきからに はててゐて かくや恋ひなも 君が目を欲り」
(歌の主旨は、母から注目されることを強く求めたものと思えます。)
とありますが、三十過ぎの男のこの「母の目」を歌う母恋歌は、まさにマザコン歌と言えます。
結語
せっかく残された史料も、それを誤訳すると、あってなきがごとしである。