広開土王(好太王)陵碑文の全文訳注の試み 2012.03.03/05/13/21
はじめに
広開土王(好太王)陵碑は、中国吉林省集安市のその王陵の近くに位置し、高さ約6.3メートル、幅約1.5メートルの角柱状の石碑である。その四面に総計1802文字が刻まれ、碑文は漢文での記述となっている。碑文は風化によって判読不能な箇所も存在する。
この碑は高句麗の第19代の王(在位:391年 - 412年)で、姓は高、名は談徳、尊号は永楽太王、諡号は國岡上廣開土境平安好太王の業績を称えるために、息子の長寿王が、414年(甲寅年九月二十九日)に建てたものである。広開土王は、『三国史記』「年表」で、「広開土王談徳」と記され、「中国史書」では「句麗王安」などと記述される。
この碑文は4世紀から5世紀にかけての北東アジア(朝鮮半島と日本)の状勢を朝鮮民族が自ら記した同時代的史料である。当時の高句麗の視点と言う一面的な情報だが、この時代の貴重な同時代的情報である。主に同時代的情報は、中国人の視点による中国文献が主流である。また母国語の文字を持たなかった日本や朝鮮で、文字(漢語、漢字)で記述され、まとまって現存する文献は、主に7世紀以降となる。これらの点から見ても貴重な歴史的文献と言える。しかも書写による誤謬や書き変えなどが無い製作当時の姿を残す金石文でもある。
しかしながら、この碑文の読解は、時の政治や思想に左右され、銘文にそって読解、解釈されることは少ない。また日本語での読解は日本と関連した部分が中心であり、碑文全文を読解したものは、目に触れる機会が少ない。そこで、ここにその全文読解を試みたい。読解にあたっては、碑文は漢語を母国語とする者の漢文ではなく、朝鮮語を母国語とする者の漢文であることを念頭に置いた。
釈文活字テキスト
インターネット情報の「維基文庫」(自由的図書館)版を底本とした。これを徐建新氏の原石拓本に基づく「録文」(『好太王碑拓本の研究』2006年)で修正し、水谷悌二郎氏の釈文(『好太王碑文考』昭和52年(1977年))も参考にした。この全文を「面」ごとに分けて下記に記す(碑文に従い一行41文字。□は判読不明や欠落部分。青字が修正部分。)。
【第一面】(11行41文字)
惟昔始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有聖□□□□□□命駕巡幸南下路由夫餘奄利大水王臨津言曰我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王為我連葭浮龜應聲即為連葭浮龜然後造渡於沸流谷忽本西城山上而建都焉不樂世位天遣黄龍來下迎王王於忽本東岡黄龍負昇天顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業□至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王二九登祚號為永樂太王恩澤洽于皇天威武振被四海掃除□□庶寧其業國富民殷五穀豊熟昊天不弔卅有九晏駕棄國以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勳績以示後世焉其辭曰永樂五年歳在乙未王以碑麗不口□人躬率往討過富山負山至鹽水上破其丘部洛六七百営牛馬群羊不可稱數於是旋駕因過襄平道東來候城力城北豊五備海遊觀土境田獵而還百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘□□新羅以為臣民以六年丙申王躬率水軍討伐殘國軍□□首攻取壹八城臼模盧城各模盧城幹弖利城□□城閣彌城牟盧城彌沙城□舍蔦城阿旦城古利城□利城雜彌城奧利城勾牟城古須耶羅城莫□城□□城分而能羅城場城於利城農賣城豆奴城沸□□
【第二面】(10行41文字)
利城彌鄒城也利城大山韓城掃加城敦拔城□□□城婁實城散那城□婁城細城牟婁城弓婁城蘇灰城燕婁城柝支利城巖門至城林城□□城□□城□利城就鄒城□拔城古牟婁城閨奴城貫奴城豐穰城□□城儒□羅城仇天城□□□□□其國城残不服義敢出百戰王威赫怒渡阿利水遣刺迫城□□□□□便圍城而殘主困逼獻□男女生白一千人細布千匝跪王自誓從今以後永為奴客太王恩赦先迷之愆録其後順之誠於是得五十八城村七百將殘主弟并大臣十人旋師還都八年戊戌教遣偏師觀粛慎土谷因便抄得莫新羅城加太羅谷男女三百餘人自此以來朝貢論事九年己亥百殘違誓與倭和通王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人滿其國境潰破城池以奴客為民歸王請命太王恩慈矜其忠誠時遣使還告以密計十年庚子教遣步騎五萬往救新羅從男居城至新羅城倭滿其中官軍方至倭賊退□□□□□□□□□背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戍兵□新羅城□城倭滿大潰城口□□□□□□□□□□□□□□□□十□□□□安羅人戍兵滿□□□□其□□□□□□□言
【第三面】(14行41文字)
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□□□□□□□□□□潰□□隨□安羅人戍兵昔新羅寐錦未有身來論事□國岡上廣開土境好太王□□□羅寐□□□僕句□□□□朝貢十四年甲辰而倭不軌侵入帶方界□□□□□石城□連船□□□□□率□□□平穰□□□鋒相遇王幢要截盪刺倭寇潰敗斬殺無數十七年丁未教遣步騎五萬□□□□□□□□□城□□合戰斬殺蕩盡所獲鎧鉀一萬餘領軍資器械不可勝數還破沙溝城□城□住城□□□□□□□□城廿年庚戌東夫餘舊是鄒牟王屬民中叛不貢王躬率往討軍到餘城而餘城國□□□□□□□□□□王恩晋覆於是旋還又其慕化隨官來者味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧□鏈婁鴨盧肅斯舍鴨□□□□鴨盧凡所攻破城六十四村一千四百守墓人烟戸賣勾余民國烟二看烟三東海賈國烟三看烟五敦城民四家盡為看烟于城一家為看烟碑利城二家為國烟平穰城民國烟一看烟十呰連二家為看烟住婁人國烟一看烟卌二溪谷二家為看烟梁城二家為看烟安失連廿二家為看烟改谷三家為看烟新城三家為看烟南蘇城一家為國烟新來韓穢沙水城國烟一看烟一牟婁城二家為看烟豆比鴨岑韓五家為看烟勾牟客頭二家為看烟永底韓一家為看烟舍蔦城韓穢國烟三看烟廿一古家耶羅城一家為看烟炅古城國烟一看烟三客賢韓一家為看烟阿旦城雜珍城合十家為看烟巴奴城韓九家為看烟各模廬城四家為看烟各模盧城二家為看烟牟水城三家為看烟幹弓利城國烟二看烟三彌舊城國烟七看烟
【第四面】(9行41文字)
□□□□七也利城三家為看烟豆奴城國烟一看烟二奧利城國烟二看烟八須鄒城國烟二看烟五百殘南居韓國烟一看烟五大山韓城六家為看烟農賣城國姻一看烟一閏奴城國烟二看烟廿二古牟婁城國烟二看烟八琢城國烟一看烟八味城六家為看烟就咨城五家為看烟豐穰城廿四家為看烟散那城一家為國烟那旦城一家為看烟勾牟城一家為看烟於利城八家為看烟比利城三家為看烟細城三家為看烟國岡上廣開土境好太王存時教言祖王先王但教取遠近舊民守墓洒掃吾慮舊民轉當羸劣若吾萬年之後安守墓者但取吾躬巡所略來韓穢令備洒掃言教如此是以如教令取韓穢二百廿家慮其不知法則復取舊民一百十家合新舊守墓戸國烟卅看烟三百都合三百卅家自上祖先王以來墓上不安石碑致使守墓人烟戸差錯惟國岡上廣開土境好太王盡為祖先王墓上立碑銘其烟戸不令差錯又制守墓人自今以後不得更相轉賣雖有富足之者亦不得擅買其有違令賣者刑之買人制令守墓之
【第一面】の読解
原文に標点(句読点)を付け、意味にそって改行し、内容により段落に分け、その段落ごとに<原文>、<私見>、<語釈>をおこなう。
但し、読みは漢語の翻訳と言う立場を取り、学校漢文読みは行わない。<語釈>で(漢和辞典)とは「藤堂大漢和辞典」(学研CD版)をさし、(漢語字典)はインターネット辞書の「漢典検索」をさす。
<原文.1>
惟昔、始祖鄒牟王之創基也。出自北夫餘。
天帝之子。母河伯女郎。
剖卵降世。生而有聖□□□□□□
<私見>
これ昔(の事)は、始祖の鄒牟(シュム)王の創基なり。
出自は北の夫餘。
(鄒牟王は)天帝の子。母は河伯(河神)の娘。
卵をわって降誕した。生まれながらにして聖□□□□□□あり。
<語釈>
惟;強調をあらわすことば(漢和辞典)。『書経』によく使われる用法。
鄒牟王;シュム王。「三国史記・年表」(以下「年表」と言う)に、「始祖、東明聖王。姓、高氏。諱(名)、朱蒙(シュム)」と載る。
夫餘;「夫餘國在玄菟北千餘里、南接鮮卑、北有弱水。」(晋書)。「高句麗者、出於夫餘。自言先祖朱蒙。朱蒙母河伯女。」(魏書)。
天帝之子;『詩経』「商頌・玄鳥」に「天、命玄鳥(燕)降而生商(契)」とあり、「殷」の始祖の「契」も燕(つばめ)が天に命じられて地上に降りて「契」を生んだと言う伝説がある。ここでの鳥は天帝の使者。これに類した天命による卵生神話の一種。
河伯女郎;河伯とは「河神也」(『荘子集釋』「秋水」疏)。女郎とは「少女」(漢和辞典)。
よって「河神の娘」。
剖卵降世;先の『詩経』「玄鳥」にあるように、中国の偉人卵生神話の一種。「高麗之先、出自夫餘。夫餘王嘗得河伯女、因閉於室内、為日光隨而照之、感而遂孕(はらむ)、生一大卵、有一男子破殼而出、名曰朱蒙。」(隋書)。「降世」は「降誕(偉人がうまれる)」と解釈した。
<原文.2>
命駕、巡幸、南下路。
由夫餘奄利大水、王臨津言曰、我是皇天之子、母河伯女郎鄒牟王。為我連葭浮龜。
應聲即為連葭浮龜。然後造渡。
於沸流谷忽本西、城山上。而建都焉。
<私見>
駕に命じ、巡幸し、路を南下す。
扶余の奄利の大水(タイスイ)を由るに、王は津に臨み、言いて曰く、「我はこれ皇天(コウテン)の子で、母は河神の娘の鄒牟王。我が為に蘆(あし)を連ね、亀を浮かばせよ」と。
声に応じて即ち蘆を連ね、亀を浮かばすことを為す。然る後に、はじめて渉る。
沸流谷の忽本の西で、山の上に城をきづく。そして、ここに都を建てる。
<語釈>
由;動詞的に読んだ。「漢字」は、それだけでは品詞が不定で、意味は多義である。文中に置かれて品詞と意味が一つに定まる。
奄利大水;奄利と言う大きな川か(検討要)。
葭;あし(蘆)(漢和辞典)。
造;「始也」(正韻)
沸流谷忽本;地名。(検討要)。
城;動詞として読んだ。「きづく。城をつくる。」(漢和辞典)。「城彼朔方。<彼の朔方に城をつくる。>」(『詩経』「小雅」)
<原文.3>
不樂世位。
天遣黄龍、來下迎王。
王於忽本東岡、黄龍負昇天。
顧命世子儒留王、以道興治。
大朱留王紹承基業。
<私見>
(鄒牟王は)世の位(世俗の王位)を楽しまず。
天、黄龍を使わし、来下させ、王を迎える。
王は忽本の東の岡より、黄龍に負われて天に昇る。
世継ぎの儒留王に遺言するに、道をもって治(治世)を興せと。
大朱留王は基業を紹承した。
<語釈>
顧命;遺言。(漢和辞典)
世子;世継ぎの子。(漢和辞典)
儒留王;「年表」には瑠璃王。
道;王道や正道。(漢和辞典)
大朱留王;「年表」には大武神王無恤。
<原文.4>
□至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王。
二九登祚、號為永樂太王。
恩澤洽于皇天、威武振被四海。
掃除□□、庶寧其業。
國富民殷、五穀豊熟。
昊天不弔、卅有九晏駕棄國。
<私見>
□十七世の孫の國岡上廣開土境平安好太王(諡号)に至る。
18(歳)にて王位に就き、永楽大王(尊号)と号す。
(永楽大王の)恩澤(オンタク)は皇天にかない、威武(武威)の振いは天下におよぶ。
□□を掃き除き、その業をやすんずることをこいねがう。
国は富み、民も盛んにして、五穀は豊熟なり。
(されど)昊天(コウテン)不弔(フチョウ)にして、39(歳)で亡くなる。
※(上記より好太王の治世は、<39-18+1=22>の22年間。)
<語釈>
二九;29歳でなく、「2×9=18(にくじゅうはち)」の18歳。29ならば、後文にもあるように廿九や二十九と、位取りを示す文字を書く。
登祚;トウソ。天子(王)の位につく(漢和辞典)
恩澤;「今陛下仁惠撫百姓,恩澤加海内」(史記)で、王による臣民への恩恵。
洽;「和也、合也。」(正韻)
四海;世界、天下。(漢和辞典)
掃除□□;これは「□□を掃除」であるが、□□が不明。
庶寧;「庶」は、こいねがう。「寧」は、やすんずる。(漢和辞典)
殷;「引伸之為凡盛之称。又引伸之為大也。又引伸之為衆也。」(段玉裁『説文解字注』)
昊天不弔;天が同情をたれないこと。「不弔昊天<不弔なる昊天>」(『詩経』「小雅・節南山」)
晏駕棄國;「晏駕(アンガ)」は、「古代称帝王死亡的諱辞」(漢語字典)で、皇帝の死亡を言う。「棄國」も同様。よって「晏駕棄國」の四文字で「王の死」。
<原文.5>
以甲寅年九月廿九日乙酉、遷就山陵。
於是立碑、銘記勳績、以示後世焉。
其辭曰、
<私見>
甲寅年九月廿九日乙酉に、(王の遺体)を遷し、山陵に就ける。
是に碑を立て、勳績を銘記し、もってこれを後世に示す。
その辞に曰く・・・
<語釈>
甲寅年;子の長寿王の414年で、広開土王の死後2年。広開土王即位の永楽元年の干支は、後文から辛卯(391年)で、時に年は18歳。死亡時は39歳なので、王の死亡年の干支は、<39-18+391=412>で、壬子(412年)となる。しかし『三国史記』「年表」は翌癸丑年(413年)で、ここに1年のズレがあるが、これは当時の「年表」制作者の計算間違いであるか。
山陵;みささぎ。天子や皇后の墓。(漢和辞典)
其辭曰;これ以降「広開土王」の勳績が記される。
<原文.6>
永樂五年、歳在乙未。
王以碑麗不□□人、躬率往討。
過富山負山、至鹽水上。
破其丘部洛六七百。営牛馬群羊不可稱數。
於是、旋駕、因過襄平道東來候城力城北豊五備海、遊觀土境、田獵而還。
<私見>
永樂五年(395年)、歳(ほし)は乙未にあり(乙未年)。
王、[碑麗不□□人を]もって、(王)みずから(軍を)率いて、往って討つ。
富山、負山を過ぎて、鹽水(エンスイ)のほとりに至る。
その丘の部落の六、七百を破る。営(エイ)の牛馬、群羊は、数えあげることが出来ない(ほど多い)。
是において、駕をめぐらし、よって[襄平道東來候城力城北豊五備海]を過ぎ、土地の境を遊覧し、田猟(デンリョウ)して還る。
<語釈>
永樂五年;「永樂」は広開土王の治世時の年号。この五年を逆算すると、永楽元年は、391年(辛卯)にあたる(「年表」と1年のズレがある)。
歳在乙未;「歳(ほし)」は中国暦の歳星。「乙未」は同じく中国暦の紀年法で、十干と十二支を組み合わせて六十年を一巡とする干支年。ここの乙未年は、西暦395年にあたる。
碑麗不□□人;文字の欠落があり意味不明(検討要)。
躬;みずから。(漢和辞典)
上;「ほとり。あたり。」(漢和辞典)。「子在川上<子、川のほとりに在り。>」(『論語』「子罕」)
営;軍隊で、大隊のこと。(漢和辞典)
不可稱數;「稱(称)」は、あげる(となえる)。「數(数)」は、かぞえる。(漢和辞典)
よって、一々数え上げられないほど数が多いことを言う。
襄平道東來候城力城北豊五備海;地名だが、区切りが不明(検討要)。
土;大地。田畑。土地(漢和辞典)
田獵(田猟);デンリョウ。狩猟。(漢和辞典)。「譬如田猟。射御貫(習)則能獲禽。」(左傳・襄公三十一年)
<原文.7>
百殘新羅舊是屬民、由來朝貢。
而倭以辛卯年來。
渡海破百殘、□□新羅、以為臣民。
<私見>
百済、新羅は、もとこれ(高句麗の)属民にして、もともとは(高句麗に)朝貢していた。
しかして、倭、辛卯(シンボウ)年に来る。
(倭は)海を渡って百済を破り、[□□新羅]、もって(百済、新羅を)臣民とした。
<語釈>
百殘;百済。新羅と異なり、仇敵である百済を「百殘」と卑称で記したか。百済の国名の由来は、『隋書』「東夷傳」には「百濟之先、出自高麗國・・・始立其國于帶方故地・・・初以百家濟海、因號百濟。」と載る。
舊(旧);もと。(漢和辞典)
屬民;「聚集民衆。(聚集した民衆)」(漢語字典)。「屬」は、「連也。・・・凡異而同者曰屬。<凡そ、異にして同は、属という。>」(段玉裁『説文解字注』)。下文の「臣民」との違いがある。
由來(由来);「もともと。はじめから。元来。」(漢和辞典)
辛卯年;西暦331年。 「碑文」での紀年の用法は、広開土王の治世年間は「永楽五年」とか「(永楽)六年丙申」と「永楽年号」を基準にする。それ以外は、前文にもあるように「甲寅年(長寿王の治世年)」と干支年だけで記される。よってこの「辛卯年」は「永楽元年(391年)」ではなく、それより一巡(60年)前の「辛卯年」であり、それは祖父の「故国原王斯由(中国史書では劉又は礒)」の時代であろう。
ちなみに、永楽元年(391年)前後の対百済記事を『三国史記』「高句麗本紀」から下記に抜粋する(一年のズレを考慮し、「年表」より一年修正した)。
385年:王(父の故国壤王)発兵、南伐百済。
388年:百済来侵。
389年:百済・・・攻破都押城。
391年:南南伐百済抜十城。
392年:百済侵南辺。
393年:百済来侵。
394年:秋八月、王(広開土王)與百済戦狽水之上。大敗之。虜獲八千余級。
これで見ると391年前後は、百済との戦いを繰り返していた状況であり、敵の敵は味方と言うように、もしもこの時、倭が海を渡り百済を討てば、それは高句麗にとって味方となるが、これでは碑文の内容と異なる。百済とは、碑文で「百残」と記すように、宿敵の間であり、391年以前も「属民」「朝貢」の関係とは明らかに違う。
では、百済との友好関係が崩れたのはいつかと言うと、百済側の言い分では、『魏書』に、「延興二年(494年)、其(百済)王餘慶始遣使上表曰『臣與高句麗源出夫餘、先世之時、篤崇舊款。其祖釗輕廢隣好。』」とあり、「釗(リュウ)」(故国原王)の時代と言う。この「釗」は、広開土王の祖父に当たり、百済との戦いで戦死したとも言われる(『三国史記』では371年。「百済王率兵三萬来攻平壌城。王出師拒之。為流矢所中。是月二十三日薨。」)。
また、広開土王即位元年の「永楽元年」は、干支年が一巡(60年)した祖父の故国原王の即位元年と同じ辛卯年にあたる。
□□新羅:欠落部分の2字は、[東] [破]と推定も出来るが不明。
臣民;臣下と国民。
【第二面】の読解
(「第一面」からの続きを含む)
<原文.8>
【第一面】以六年丙申、王躬率水軍討伐殘國。
軍□□首、攻取壹八城、臼模盧城、各模盧城、幹弖利城、□□城、閣彌城、牟盧城、彌沙城、□舍蔦城、阿旦城、古利城、□利城、雜彌城、奧利城、勾牟城、古須耶羅城、莫□城、□□城。分而能羅城、場城、於利城、農賣城、豆奴城、沸□□【第二面】利城、彌鄒城、也利城、大山韓城、掃加城、敦拔城、□□□城、婁實城、散那城、□婁城、細城、牟婁城、弓婁城、蘇灰城、燕婁城、柝支利城、巖門至城、林城、□□城、□□城、□利城、就鄒城、□拔城、古牟婁城、閨奴城、貫奴城、豐穰城、□□城、儒□羅城、仇天城、□□□□□。
其國城主不服義、敢出百戰。
王威赫怒、渡阿利水、遣刺迫城□□□□□、便圍城。
而殘主困逼、獻□男女生白一千人、細布千匝。
跪王、自誓、從今以後、永為奴客。
太王恩赦先迷之愆、録其後順之誠。
於是得五十八城村七百。將殘主弟并大臣十人、旋師還都。
<私見>
六年丙申(396年)に、王みずから水軍を率いて、百済を討伐する。
[軍□□首]、攻め取ること、1壹八城、2臼模盧城、3各模盧城、4幹弖利城、5□□城、6閣彌城、7牟盧城、8彌沙城、9□舍蔦城、10阿旦城、11古利城、12□利城、13雜彌城、14奧利城、15勾牟城、16古須耶羅城、17莫□城、18□□城。19分而能羅城、20場城、21於利城、22農賣城、23豆奴城、24沸□□【第二面】25利城、26彌鄒城、27也利城、28大山韓城、29掃加城、30敦拔城、31□□□城、32婁實城、33散那城、34□婁城、35細城、36牟婁城、37弓婁城、38蘇灰城、39燕婁城、40柝支利城、41巖門至城、42林城、43□□城、44□□城、45□利城、46就鄒城、47□拔城、48古牟婁城、49閨奴城、50貫奴城、51豐穰城、52□□城、53儒□羅54城、55仇天城、56□□[城](又は□[城])、57□[城](又は□□[城])なり。
58その国城の主(百済王)は義に服せず、敢えて出でて、頻りに戦う(百戦)。
王(広開土王)、たけだけしく赫怒(カクド)して、阿利水(阿利川)を渡る。
[遣刺迫城□□□□□]、更に城を囲む。
百済王、困逼(コンヒツ)して、男女の生白一千人と細布千匝(ソウ)を獻□した。
王にひざまずき、みずから「今より以後、永く奴客となる」と誓う。
太王は(百済王の)先迷のあやまちを恩赦し、その後に従順の誠たることを文字にした。
是に、五十八城、村七百を得る。
百済王の弟並びに大臣十人をひきいて、師(軍)をめぐらし、都に還る。
<語釈>
六年丙申;西暦396年。
殘國;百済国。
軍□□首;意味不明。
其國城主;「其國城」は百済の国城(都城)、「主」は「あるじ」で、時の百済王をさす。
威赫怒;「威」は「たけし」。「赫怒(カクド)」はまっ赤になって怒る。(共に漢和辞典)
遣刺迫城□□□□□;不明、欠落が多く、意味をとることは困難。
殘主;百済王。
困逼;困頓急迫<困窮せっぱ詰まる>。 (漢語字典)
生白;この「生白」は「白徒」の類を言うか。「白徒」とは、『漢書』顏師古註に「白徒、言素非軍旅之人、若今言白丁矣。」とあり、平民、非軍人などの一般人を指す。
匝;<単位詞>回る度数を数えることば。(漢和辞典)
跪;ひざまずく。(漢和辞典)
先迷之愆;「愆(エン)」は「あやまち」(漢和辞典)。「先迷」の「先」とは何をさすのか不明。辛卯年以来の「以為臣民」と、倭に通じて高句麗と敵対関係になったことか。それとも今回の「不服義、敢出百戰」の事か。
録其後順之誠;「その後に従順の誠たることを文字にした。」と読んだ。
五十八城;「国城」を含めて58城。「城」の文字を目安に1から58までの番号を<私見>で付けた。
<原文.9>
八年戊戌。教遣偏師、觀粛慎土谷。
因便抄得莫新羅城、加太羅谷男女三百餘人。
自此以來朝貢、論事。
<私見>
八年戊戌(398年)。のりて、偏師(軍名?)を遣わし、粛慎の土(土地)や谷を観させる。
よって更に莫新羅城や加太羅谷の男女三百余人を抄得する。
これより以来、(粛慎は)朝貢し、事を論じる(指示を仰ぐ?)。
<語釈>
教;岩波書店版『日本書紀』「応神天皇二十八年秋九月」条の「高麗王教日本国・・・」の頭注に、「諸侯言曰教<諸侯の言は教という>」と蔡瘢の『独断』を引く。これは天子の「詔」や「勅」に対応し、日本でも公卿等の上位者が下位に意志を伝える「御教書」と言う文書様式名に残る。碑を建立した長寿王は、「晉安帝義熈九年(413年)、遣長史高翼奉表獻赭白馬。以茂(長寿王)爲使持節、都督營州諸軍事、征東將軍、高句驪王、樂浪公。」(『宋書』)とあり、諸侯の地位と言える。倭訓としては「おしふ(おしえる)」もあるが、『日本書紀通釈』に「古訓にノルとある方よろし。」とあり、これに従った。意味としては「諭告之詞。其義與令同」(正字通)。
粛慎(シュクシン);「肅慎氏一名挹婁、在不咸山北、去夫餘可六十日行。東濱大海、西接寇漫汗國、北極弱水。」(晉書)。また、『国語』「魯語」に「仲尼曰・・・昔武王克商、通道于九夷、百蠻、使各以其方賄來貢、使無忘職業。於是肅慎氏貢椎矢(コシ)。・・・先王欲昭其令德之致遠也、以示後人、使永監焉、故銘其椎曰肅慎氏之貢矢」とあり、『日本書紀』「斉明天皇紀」にも登場する。
<原文.10>
九年己亥。百殘違誓、與倭和通。
王巡下平穰。
而新羅遣使、白王云、
倭人滿其國境、潰破城池、以奴客為民。歸王請命。
太王恩慈矜其忠誠
時、遣使還、告以密計。
<私見>
九年己亥(399年)。百済が(六年丙申の)誓にそむき、倭と和通する。
王は平壌を巡下していた。
そして(そこに)、新羅が使者を遣わし、王にもうして言うには、
「倭人、その国境に満ち、城や池をつぶし破り、百済をもって民となす。(新羅は)王に帰順し、(王の)命令を請う」と。
太王、(王の)恩慈(オンジ)にて、その忠誠をあわれむ。
時に、使者を帰し遣わすに、(王は)密計を(使者に)告げる。
<語釈>
白;もうす。(漢和辞典)
奴客;百済。「六年丙申」条に「自誓、從今以後、永為奴客。」とある。
恩慈;めぐみ、いつくしみ。(漢和辞典)
矜;あわれむ。(漢和辞典)
密計;この密計については、後文にあると思うが、文字の不明、欠落が多く、詳細は不明。
【第三面】の読解
(「第二面」からの続きを含む)
<原文.11>
【第二面】十年庚子。教遣步騎五萬往救新羅。
從男居城至新羅城。
倭滿其中。官軍方至、倭賊退。
□□□□□□□□□背急追。
至任那加羅從拔城、城即歸服。
安羅人戍兵□新羅城□城、倭滿大潰城。
口□□□□□□□□□□□□□□□□十九□□□□安羅人戍兵滿□□□□其□□□□□□□言【第三面】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□□□□□□□□□□潰□□隨□安羅人戍兵。
昔新羅寐錦未有身來論事。
□國岡上廣開土境好太王□□□羅寐□□□僕句□□□□朝貢。
<私見>
十年庚子(340年)。のりて、步騎五萬を遣わし、往って新羅を救わせる。
男居城より新羅城に至る。
倭はその中に満ちていた。官軍(步騎五萬)がまさに至ると、倭賊は退いた。
[□□□□□□□□□背急追](意味不明)。
任那加羅の從拔城に至れば、(その)城はすぐに歸服した。
[口□□□□□□□□□□□□□□□□十九□□□□安羅人戍兵滿□□□□其□□□□□□□言【第三面】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□□□□□□□□□□潰□□隨□安羅人戍兵](意味不明)。
昔、新羅の寐錦は、いまだみずから(寐錦自身が)来て事を論ずることはなかった。
[□國岡上廣開土境好太王□□□羅寐□□□僕句□□□□朝貢](意味不明)。
<語釈>
任那加羅從拔城;ここでは「任那加羅の從拔城」と読め、「任那加羅」は連語と思われるが、『日本書紀』では「崇神天皇六五年七月」の条に「任那者、去筑紫國二千餘里。北阻海以在鷄林之西南。」とあり、「欽明天皇二年四月」の条には「聖明王曰、昔我先祖速古王、貴首王之世、安羅、加羅、卓淳旱岐等、初遣使相通、厚結親好。」とある。「中国史料」では、『宋書』に「順帝昇明二年(478年)・・・詔除武、使持節、都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。」と、それぞれ別の扱いとなっている。
安羅人;『日本書紀』「神功皇后摂政四九年春三月」の条に「・・・撃新羅而破之。因以平定、比自[火本]、南加羅、喙國、安羅、多羅、卓淳、加羅七國。」とあり、「継体天皇七年十一月乙卯」の条には「・・・於朝庭引列、百濟姐彌文貴將軍、斯羅[酉文]得至、安羅辛已奚及賁巴委佐、伴跛既殿奚及竹[酉文]至等、奉宣恩勅、以己[酉文]、帶沙賜百濟國。」とある。
戍兵(ジュヘイ);戍兵=戍客。国境を守る兵士。「戍客望辺色、思帰多苦顔<戍客辺色を望み、帰ることを思ひて苦顔多し>」〔李白・関山月〕(漢和辞典)
寐錦;『日本書紀』「神功皇后摂政前紀」に「新羅王波沙寐錦」とあり、「寐錦」の傍訓に「むきむ(ん)」とある。国の主権者に付けられる称号か。『三国史記』では「尼師今」と書かれる。
<原文.12>
十四年甲辰。而倭不軌、侵入帶方界。
□□□□□石城□連船□□□□□率□□□平穰□□□鋒相遇。
王幢要截盪刺。
倭寇潰敗、斬殺無數。
<私見>
十四年甲辰(404年)。そして倭は不道にも、帶方地域に侵入した。
[□□□□□石城□連船□□□□□率□□□平穰□□□鋒相遇](意味不明)。
王の軍は、待ち伏せして、切っておおいに刺す。
倭寇は潰敗(カイハイ)し、(王の軍が倭寇を)斬り殺すこと無數なり。
<語釈>
不軌(フキ);人の守るべき道(=軌)からはずれる。(漢和辞典)
帶方;『梁書』「高句麗伝」に「以句驪王安(広開土王)為平州牧、封遼東、帶方二國王。」とあり、時期は不明だが、広開土王は「遼東」と「帶方」の二國王の爵位を受けている。ここでは、倭が高句麗領内(帶方地域)に直接侵入したことを言うか。
王幢;「幢」は軍旗で「王の軍」と解した。
要截盪刺;「要」は、「要撃」の「まつ」。「要我乎上宮<我を上宮にまつ。>」〔詩経・眇風・桑中〕(漢和辞典)。「截」は「きる。たつ。」(漢和辞典)。「盪(トウ)」は「放(ほしいまま)也。」「大貌(大なるかたち)也」(康煕字典)。「刺」は「刺殺」の「さす」。(漢和辞典)。よって「待ち伏せして、切っておおいに刺す。」と読んだ。
<原文.13>
十七年丁未。教遣步騎五萬、
□□□□□□□□□城□□。
合戰斬殺蕩盡。
所獲鎧鉀一萬餘領。軍資、器械不可勝數。
還破沙溝城□城□住城□□□□□□□□城
<私見>
十七年丁未(407年)。のりて、步騎五万を遣わし、
[□□□□□□□□□城□□](意味不明)。
合戦し、斬り殺して(□□を)ほろぼし尽くす。
獲るところの鎧甲は一万領なり。軍資、器械は数えあげることが出来ない(ほど多い)。
[還破沙溝城□城□住城□□□□□□□□城](還りに各城を破るだが意味不明とする)。
<語釈>
蕩盡(トウジン);「ほろび尽きる。」(漢和辞典)。「焚燒府舍、官曹文書、一時蕩盡。」(梁書)
鎧窈(ガイコウ); 「鎧」は「甲也」(説文)。「[金甲]」は「與甲同。鎧也」(廣韻)。
<原文.14>
廿年庚戌。東夫餘舊是鄒牟王屬民、中叛不貢。
王躬率往討。
軍到餘城、而餘城國□□□□□□□□□□
王恩晋覆於是。
旋還、又其慕化、隨官來者、味仇婁鴨盧、卑斯麻鴨盧、□鏈婁鴨盧、肅斯舍鴨□、□□□鴨盧。
凡所攻破城六十四、村一千四百。
<私見>
廿年庚戌(410年)。東扶余はもとこれ鄒牟王(初代高句麗王)の屬民であったが、なかばは叛いて貢がず。
王みずから(軍を)率いて往って(東扶余を)討つ。
(王の)軍が余城(東扶余の城?)に致と、[餘城國□□□□□□□□□□](意味不明)。
王恩は、これをあまねくおおう。
(軍が)還るも、またそれ(東扶余の人)は、(王の)化(カ)を慕い、官に随い来たる者(仕官した者?)は、[味仇婁鴨盧、卑斯麻鴨盧、□鏈婁鴨盧、肅斯舍鴨□、□□□鴨盧]なり。
およそ(王の)攻め破る所の城は六十四、村は一千四百なり。
<語釈>
化;人格や教育によって、接する人の心や生活ぶりをかえる。「海内大化<海内大いに化す>」〔漢書・貢禹〕。「夫君子所過者化<それ君子の過る所の者は化す>」〔孟子・尽上〕(漢和辞典)。
味仇婁鴨盧、卑斯麻鴨盧、□鏈婁鴨盧、肅斯舍鴨□、□□□鴨盧;5人の人名と思われるが詳細は不明(「鴨盧」の文字をたよりに分けた)。
【第四面】の読解
(「第三面」からの続きを含む)
<原文.15>
【第三面】守墓人烟戸。
賣勾余民國烟二看烟三。東海賈國烟三看烟五。敦城民四家盡為看烟。于城一家為看烟。碑利城二家為國烟。平穰城民國烟一看烟十。呰連二家為看烟。住婁人國烟一看烟卌二。溪谷二家為看烟。梁城二家為看烟。安失連廿二家為看烟。改谷三家為看烟。新城三家為看烟。南蘇城一家為國烟。新來韓穢沙水城國烟一看烟一。牟婁城二家為看烟。豆比鴨岑韓五家為看烟。勾牟客頭二家為看烟。永底韓一家為看烟。舍蔦城韓穢國烟三看烟廿一。古家耶羅城一家為看烟。炅古城國烟一看烟三。客賢韓一家為看烟。阿旦城雜珍城合十家為看烟。巴奴城韓九家為看烟。各模廬城四家為看烟。各模盧城二家為看烟。牟水城三家為看烟。幹弓利城國烟二看烟三。彌舊城國烟七看烟。【第四面】□□□□。七也利城三家為看烟。豆奴城國烟一看烟二。奧利城國烟二看烟八。須鄒城國烟二看烟五百。殘南居韓國烟一看烟五。大山韓城六家為看烟。農賣城國姻一看烟一。閏奴城國烟二看烟廿二。古牟婁城國烟二看烟八。琢城國烟一看烟八。味城六家為看烟。就咨城五家為看烟。豐穰城廿四家為看烟。散那城一家為國烟。那旦城一家為看烟。勾牟城一家為看烟。於利城八家為看烟。比利城三家為看烟。細城三家為看烟。
<私見>
「守墓人・烟戸」を具体的に定めた部分である(賣勾余民國烟二看烟三から細城三家為看烟まで)。詳細は不明。
<語釈>
守墓人;『周禮』「春官」に「冢人」「墓大夫」の官職があり、これも官職か。
<原文.16>
國岡上廣開土境好太王存時教言、
祖王先王但教取遠近舊民、守墓洒掃。
吾慮舊民轉當羸劣。
若吾萬年之後、安守墓者、但取吾躬巡所略來韓穢、令備洒掃。
言教如此。是以如教令、取韓穢二百廿家。
慮其不知法、則復取舊民一百十家。
合新舊守墓戸、國烟卅看烟三百都合三百卅家。
自上祖先王以來、墓上不安石碑、致使守墓人烟戸差錯。
惟國岡上廣開土境好太王盡為祖先王墓上立碑、銘其烟戸、不令差錯。
又制守墓人自今以後不得更相轉賣。
雖有富足之者亦不得擅買。
其有違令賣者、刑之、買人制令守墓之。
<私見>
國岡上廣開土境好太王の存する時に、みことのりして、
「祖王や先王は、ただ遠近の旧民を取り、墓を守らせ、清掃させることのみをのべられた。
吾は、旧民の転じて、まさにやせおとろえることをおもんぱかる。
もしわれが死んだら、墓を安守(アンシュ)させる者は、ただ吾みずから巡り略す所より来たる韓穢のみを取り、清掃に備えせしめよ」と言う。
(広開土王の)言教(ゲンキョウ)かくのごとし。これをもって教令のごとくに、韓穢の二百二十家を取る。
(しかし)その法(方法?)を(韓穢の新民が)知らないことをおもんぱかり、すなわちまた旧民一百十家をとる。
新旧(新民と旧民)合わせた守墓の戸は、國烟三十、看烟三百、つごう三百三十家なり。
上祖の先王より以来、墓のほとりに石碑を安置せずして、守墓人をして烟戸の差錯をいたす。
ただ國岡上廣開土境好太王のみことごとく祖や先王の墓上に碑を立てることを為し、その(守墓の)烟戸を(碑に)きざみ、差錯せしめず。
また制するに、守墓人が自今以後(守墓の烟戸を)かえてあい転売することを得さしめず。
裕福な者あるといえどもまたほしきままに(守墓の烟戸を)買うことを得ず。
それ令(教令)にそむき(守墓の烟戸を)売る者(守墓人)は、これを刑に処し、買った人は制により墓を守らしむ(守墓の烟戸とする)なり。
<語釈>
洒掃(サイソウ);水をまき、ほうきではく。(漢和辞典)
羸;「羸」は「痩(やせる)也」(説文)。但し原碑の文字はやや異なり「羸」の異体字と思える。原碑文字は、上は[亡]で、下は[辛月凡]。
萬年之後;『三国志』「武帝紀十五年」に「孤謂之言、顧我萬年之後、汝曹皆當出嫁、欲令傳道我心、使他人皆知之。」とあり、『後漢書』「顯宗孝明帝紀」に「「帝初作壽陵、制令流水而已、石椁廣一丈二尺、長二丈五尺、無得起墳。萬年之後、埽地而祭、杅水脯糒而已。過百日、唯四時設奠、置吏卒數人供給灑埽、勿開修道。」とあるので、没後と解釈した。
略;「略、治也。取也。」(博雅)。
教令;君主の命令。(漢和辞典)
制;「禁制也」(廣韻)。「師古曰、天子之言曰制書,謂為制度之命也。」(漢書注)。
富足;「家室富足、則行衰矣。爵祿滿、則忠衰矣。」(『管子』「枢言」)
擅;ほしいままにする。(漢和辞典)
以上