『宮主秘事口伝』と卜部と中臣 2011/11/ 1 11:18
はじめに
皇學館大学の安江和宣氏の論文「『宮主秘事口伝』の成立と伝来」(「神道史研究」第二十四号第三号昭和五十一年五月・神道史学界編)の「むすび」で、「この書の価値は、(中略)祭儀によっては、比較にならないほど詳細に記している箇所もあって年中行事を研究する上に、不可欠の書であると云っても過言ではない。しかしこれまでに、この書があまり学界で取りあげられなかったのは、刊本がない為であろうか。これだけの内容を有する書であるからには、当然それがなされてあるべきであり、それがなされていないのは不思議である。」と言われた。この『宮主秘事口伝』の著者は卜部兼豊と言われ、この史料は『古事類苑』や現代史家の引用にもよく抄出される。私もこの書に興味を持ち、読んでみた。そこで、ここから受けたとりとめのないない雑感であるが、この「宮主」のことや「卜部と中臣との関係」と、少しドッキリさせられた「神の諡号」などについて愚考をめぐらしてみたい。
尚、安江氏は、後に『宮主秘事口伝』の「校訂本」を昭和五十四年に『神道祭祀論考』(神道史学会)に所収し刊行された。他では、水戸光圀の命により今井有順等が編纂し『神道集成』の中に収められたものがあり、神道大系編纂会が、これを『神道大系』「首編一」として、昭和五十六年三月に刊行した。
『日本古典籍総合目録』には次のように載る。
統一書名:宮主秘事口伝 (みやじひじくでん)
巻冊:一冊
別書名:宮主秘事口伝抄(みやじひじくでんしょう)
分類:祭祀
著者:卜部兼豊(吉田兼豊) 編
成立年:康安二(1362年)
「諸写本」の奥書には次のように載る。
康安二<壬寅>三月日清書之
正四位上行神祇大副卜部兼豊
康安二<壬寅>三月日依所労仮他筆令清書之
神祇大副卜部兼豊
宮主とは何か
「宮主」と言う官職は「職員令」に載らない「令外官」である。『延喜臨時祭式』には次のように載る。
凡宮主取卜部堪事者、任之。其卜部取三国卜術優長者者<伊豆五人、壱岐五人、対馬十人>。若取在都之人者、自非卜術絶群、不得輙充。
<凡そ宮主は卜部の事に堪える者を取り、任じる。その卜部は三国の卜術優長者を取れ(伊豆五人、壱岐五人、対馬十人)。もし在都の人をとるときは、卜術の群に絶えたる(者)にあらざるよりは、たやすくあてるを得ず。>
「卜部」に就いては「職員令」の「神祇官」の条に「卜部廿人」とあり、総数では『延喜臨時祭式』と同じである。また「六月晦大祓」の祝詞に「四国卜部等大川道<爾>持退出<読>祓却」と「四国の卜部」があるが、この「四国」は、前文に「「天下四方国<爾波>罪<止>云<布>罪<波>不在」とあるので、『延喜式』に言う「三国の卜部」と異なる。この「卜部」とは、品部名や職掌名(役名)であり、必ずしも氏名(家名)ではないと思われる。中には『延喜式』の「在都之人」を「山城国の人」と解する意見もあるが、都には各地から人が集まるのであり、必ずしも「山城国の人」とは言えない。
先の「職員令」や『延喜式』に言う「卜」とは、「記紀神話」や弥生時代の遺物に見られるような鹿の骨などを使った古来の「骨卜」ではなく、『令義解』の同条に「卜者、灼亀也・・・凡灼亀占吉凶者。是卜部之執業」と言うように中国文化伝来の「亀甲」を使った「亀卜」をさす。どちらにしろ「卜占」は神事の基本にして、伴信友はその著『正卜考』で「まことに神事の宗源にして、いとも厳重く尊き道」と言う。
「宮主」について『官職秘抄』(13世紀頃成立)には次のようにある。
卜部歴宮主。神祇官重職者、無過宮主。仍往年伊岐氏任之<長久(1040~1044)則政後絶畢>。又斎部氏任之<天延(973~976)安茂後絶畢>。
ここで「宮主」は神事における重職とされる。また、その任には「卜部氏」の他に「伊岐氏」や「斎部氏」が任じられたようであるが、「後絶畢」とあるようにこの二氏の任命は絶え、「卜部氏」が専ら任命されたようである。
宮主の人数に就いては、安江和宣氏の先の論文に依ると「宮主には、天皇にお仕えする大宮主(内宮主とも大御宮主とも称す。)、皇太子にお仕えする東宮宮主(春宮宮主とも云う)、中宮宮主(皇后宮宮主とも云う。)があり、それぞれ一人ずつお仕え申し上げていた」と言う。『類聚三代格』「巻十五諸司田事」(国史大系本)にも次のような官符がのこる。
太政府(官?)符
應以官田、給三宮(宮)主、戸座等月料事
山城国九町四段百十八歩
御宮宮主一人、戸座一人、合二人料三町(二?)百三(四?)十九歩
太皇太后宮宮主一人、戸座一人、合二人料三町四十九歩
皇太后宮宮主一人、戸座一人 合二人料三町三段八十歩
右得神祇官解称、宮主等解称、件月料米、准諸司要劇。以官田、被宛給者。官依解状、謹請官裁者。大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣冬緒宣、奉勅依請。
元慶七年(883)十二月九日
また皇太子に付いた宮主は、「帝在東宮時爲宮主、踐祚之日、爲大宮主。」(『文徳実録』天安二年(858)四月)と、皇太子の即位とともに天皇の宮主に転出したようである。
宮主の職務内容は、『宮主秘事口伝』の記述でみると、卜占だけではなく、「大嘗会者、神膳供進、第一之大事也。・・・仍代々大祀(大嘗祭)年者、以当家連々所有御談合也。」や「河原御禊役者、宮主定役也。」および「不*撤以前、宮主向巽(たつみ・東南)方、二拝、申詔戸(のりと)。」(大嘗祭の条)などの神事の他「無行幸之時者、只宮主、采女(うねめ)二人於北舎執行」(今神食次第の条)と天皇の神事代行までこなしたと言う。(*「撤(テツ)」は撤下とも言い、供えた神膳などをさげること。)宮主とは、天皇や皇太子、皇后など個人につき、各神事の実務をこなし、神事に関しての秘書官的性格があったと言える。
著者の卜部兼豊について
卜部兼豊の他の著書は、安江氏の先の論文に「(兼豊の)著書は・・・彼五十二歳の延文元年(1356)四月十七日に『古語拾遺』、同年四月十九日には『日本書紀神代巻』、同年六月には『文徳実録』と『続日本紀』に、また五十四歳の延文三年六月には『三代実録』と矢継ぎばやに国史に修補を加えている」とあり、彼はかなり古典や歴史に精通した博学の人と言える
そもそも卜部家は、神事だけではなく、学問や歴史に広く関心をもっていていたようで、兼豊の父の兼夏は『日本書紀』写本の乾元本を残し、四代前の卜部兼直は、『古語拾遺』の「卜部本」(嘉禄本)と言われる最古の写本を残している。子孫には「吉田神道」創設の兼倶がいて、別の系統では、『釈日本紀』(1300年前後)を著した卜部兼方や『徒然草』(1330年頃)の兼好法師などがいる。
「卜部氏」と「中臣氏」について
ここでなぜ「卜部氏」と「中臣氏」を一緒に論じるかと言うと、「卜部氏」の系譜をさかのぼるとある時点で「中臣氏」と一緒になり、先祖は同じとなっているからである。中臣氏は「記紀神話」に次のように載る。
思金神令思・・・召天児屋命、布刀玉命、天香山之真男鹿之肩抜而、取天香山之天之波々迦而、令占合麻迦那波・・・(『古事記』「天の岩屋戸」)。
天兒屋命・・・故俾以太占之卜事而奉仕焉。(『日本書紀』「神代下第九段一書第二」)。
つまり、中臣氏の専門は祝詞の宣読と思われるが、祝詞は忌部など他氏も宣読するので、本来は「卜占」であり、品部としての「卜部職」が宗業である。しかし、「中臣氏」の「卜占」は「卜部氏」の「卜占」と基本的な違いがある。それは「卜部氏」が行う「卜占」が、先の『令義解』にもあるように外来の「亀卜」であるに対して「中臣氏」は、「天香山之真男鹿之肩抜而」(古事記)と言われるように、鹿の骨による「骨卜」である。この神話高天原由来の「骨卜」の術は廃れて伝わらないと、伴信友は『正卜考』序文の「正卜考大意」で言う。『三国志』「魏志倭人伝」にも「輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辞如令亀法。」と三世紀には、まだ「骨卜」であったことがうかがえる。
では次に問題となるのは、「中臣氏」がいつ「卜占(骨卜)」を放棄し、なぜ古来の「骨卜」から外来の「亀卜」への変換が為されたかである。この点について「国史」特に「記紀」は全く語らないし、神話以外で、「中臣氏」が「卜占」をした記事は、『古事記』にはなく、『日本書紀』に、「一云・・・時天皇聞是言。則仰中臣連祖探湯主而卜之。」と垂仁紀二十五年の異伝のみが伝わる。外来の「亀卜」の由来については、『日本書紀』欽明天皇十四年(553)六月の記事に次のようことが載る。
「遣内臣〈闕名。〉使於百濟・・・別勅、醫博士、易博士、暦博士等、宜依番上下。今上件色人正當相代年月。宜付還使相代。又卜書、暦本、種種藥物可付送。」
この「卜書」は「亀卜」に関するものであろう。「亀卜」は「百済」経由で伝来したと言うことになろう。この欽明天皇の時期が転換点と言えるかもしれない。
ここで中臣氏系図を『中臣氏系図』「延喜本系解状」(群書類従本)から見てみると、
黒田大連公生二男
<中臣姓始>(傍注)
中臣常磐大連公<氏上。一云、常歯大連、鹽屋牟漏連之女都夫羅古娘腹>
右大連始賜中臣連姓。磯城嶋宮御宇天國押開廣庭天皇<欽明>之代。特蒙令誉。恪勤供奉者。今案、苦節匪躬之忠、当時無出右者。
と、欽明天皇期に「中臣連」の姓を始めて賜うとあります。『藤原氏系譜』(国史大系版「尊卑分脈」)も同様で、「常磐大連」の傍注に「始而賜中臣連姓」とある。
「記紀」で姓を「中臣」と冠した人物が登場するのは、「中臣烏賊津連」(仲哀天皇九年二月)が初出である(これ以前は垂仁紀の「中臣連遠祖大鹿嶋」と「中臣連祖探湯主」とで、「遠祖」や「祖」を間に挿入している。)。この後は欽明紀十三年十月条の「中臣連鎌子」となる。しかし『古事記』にはない。仲哀紀の「中臣烏賊津連」は、本来は「中臣祖烏賊津連」と「祖」を挿入すべきものと思われるが、この巻きに関しては「古写本」がなく「卜部系写本」のみであり、別系統本との校合が出来ない。しかし、中臣側の史料である諸系図から「中臣連」を氏の名として名乗るようになったのは欽明天皇期頃と言える。「中臣」の名の由来については、先の「延喜本系解状」に次のように記載される。
案依去天平寶字五年(淳仁天皇761年)、撰氏族志所之宣、勘造、所進本系帳云、高天原初而、皇神之御中、皇御孫之御中執持、伊賀志桙(いかしほこ)不傾、本末中良布留人、称之中臣者。
皇神(すめがみ・諸神)と皇御孫(すめみま・天皇)の中をとりもつ人(神官)と言う意味であろうか。
さて、「中臣」の賜姓が欽明朝ごろとなればそれ以前は何か。これは先の『中臣氏系図』には載らないが、『藤原氏系図』「常磐大連」の傍注に「本者、卜部也」とあり、同じく国史大系版『尊卑分脈』の「卜部系図」にも同様に載る。恐らく「中臣連」の前は「卜部」であろう。ただし、名に「卜部」を冠しても、「卜部」と言う品部は各地におり、それらと血脈があるとは限らない。太田享氏はその著『姓氏家系大辞典』(角川書店1981)の「卜部」条で、次のように述べる。
(引用)
中古卜部が行ひし令規定の卜法は亀卜にて、鹿卜の事は既に見えず。又卜部は壹岐、対馬のもの多く、山城、伊豆、の卜部も、もとは伊岐より移ると云へば、太古の卜法既に廃れ、壹岐対馬に伝はりし支那の卜法、専ら世に行はれしを知る(中略)中古初期の戸籍並に古文書に見ゆる諸国の卜部氏も嘗つては卜事に携はりしより、其の名を負ひしものならむも、神祇官に採用されし卜部は此等諸国の卜部氏にあらずして、対馬、壹岐、京、伊豆等の人より、卜事に堪能なるものを選び、しかも其れ等は必ずしも卜部なる名を氏とせしものにあらざりし。
(以上引用)
「中臣の祖の卜部」は、神話に見られるように「鹿卜」である。しかし令制に見られる卜部は、外来の「亀卜」であり、その手法は異なる。これは、「中臣の祖の卜部」が太古伝来の「鹿卜」から外来の「亀卜」に変更したと言うよりも、令制で「卜占」が「中臣の職」からはずれている所から見ても、恐らく「中臣連」の賜姓以後は、伝来の「卜術」を放棄して、現業的神職から「亀卜」を行う氏族の管理もまかされた管理職的神職に移ったものと考えられる。そして「卜占」は「亀卜」を取得し、家業とした各氏族が担ったのであろう。
卜部の種類
次に「卜部」と言われる氏族を「系図」や史料から整理すると、次の五つに大別できると思われる。
① 中臣の卜部
「中臣」賜姓(欽明朝)以前の卜部。
【現存系図】:群書類従版「中臣氏系図(延喜本系解状)」、「大中臣系図(系377と378)」。
国史大系版「尊卑分脈(中臣氏系図)」など。
【六國史記事】:卜部氏としての記載はないが、「時天皇聞是言。則仰中臣連祖探湯主而卜之。」(『日本書紀』垂仁天皇二五年三月)
*「尊卑分脈」の「中臣系図」の「常磐大連」の傍注には「本者、卜部也」とある。
【卜術】:神代紀よれば鹿を使った「骨卜」。
② 伊豆の卜部
後世、主流となる卜部であり、兼方や兼夏など多くの古典学者を輩出。
【現存系図】:群書類従版「卜部氏系図」。国史大系版「尊卑分脈(卜部氏系図)」など。
【六國史記事】:「従五位下行丹波介卜部宿祢平麻呂卒。平麻呂者、伊豆国人也。幼而習亀卜之道、為神祇官之卜部。揚火作亀、決義疑多効。」(『三代実録』元慶五年(881)十二月)
*「平麻呂」は、「大中臣系図(系378)」に「智治丸」の子の「日良麻呂」と表記され、「卜部氏祖」と記載される。これは「中臣國子大連」を祖とする「中臣氏二門」の「清麻呂」の四男の系統である。
【卜術】:亀卜。
③ 壱岐の卜部
対馬と並ぶ古参の卜部だが、中世以降は衰退。
【現存系図】:群書類従版「松尾社家系図(歌荒洲田卜部伊伎氏本系帳序)」など。
【六國史記事】:「阿閇臣事代銜命。出使干任那。於是月神著人謂之曰。我祖高皇産靈有預鎔造天地之功。宜以民地奉我月神。若依請獻我。當福慶。事代由是還京具奏。奉以歌荒樔田。〈歌荒樔田。在山背國葛野郡。〉壹伎縣主先祖押見宿禰侍祠。」(『日本書紀』顕宗天皇二年(486)十月)
「宮主外從五位下卜部雄貞。神祇少祐正六位上業基等。賜姓占部宿祢。」(『文徳実録』斉衡三年(856)九月)
「是日。宮主外從五位下占部宿祢雄貞卒。雄貞者。龜策之倫也。兄弟尤長此術・・・雄貞本姓卜部。齊衡三年改姓占部宿祢。性嗜飮酒。遂沈湎(酒に溺れ)卒。時年四十八。」(『文徳実録』天安二年(858)四月)
「壹伎嶋石田郡人宮主外從五位下卜部是雄。神祇權少史正七位上卜部業孝等賜姓伊伎宿祢。其先出自雷大臣命也。」(『三代実録』貞観五年(863)九月)
「宮主從五位下兼行丹波權掾伊伎宿祢是雄卒。是雄者。壹伎嶋人也。本姓卜部。改爲伊伎。始祖忍見足尼命。始自神代。供龜卜事。厥後子孫傳習祖業。備於卜部。是雄。卜數之道。尤究其要。・・・卒時年五十四。」(『三代実録』貞観十四年(872)四月)
*「雷大臣命」の子の「真根子命」の流れの「忍見足尼命(忍見命)」を祖とする。
系図では、雄貞と是雄は兄弟。業基と業孝は親子。
【卜術】:亀卜。
④ 対馬の卜部
壱岐の卜部同様、古参であるが、早くに途絶える。
【現存系図】:管見ですが特に無し。
「松尾社家系図(歌荒洲田卜部伊伎氏本系帳序)」では、「雷大臣命」の子の「真根子命」と兄弟の「日本大臣(雷大臣命と百済女との混血、帰化)」の傍注に「栗原連公」を載せる。
【六國史記事】:「日神著人。謂阿閇臣事代曰。以磐余田獻我祖高皇産靈。事代便奏。依神乞獻田十四町。對馬下縣直侍祠。」(『日本書紀』顕宗天皇三年(487)四月)
【卜術】:亀卜。
⑤ 各地の卜部
古代の戸籍や古文書に残る各地の卜部だが、その詳細は、系譜、卜術ともに不明。
(参考図書:太田亮著『姓氏家系大辞典』角川書店1981年)
以上より「亀卜」が壱岐、対馬よりおこり、古来の「骨卜」は途絶え、「亀卜」が各地に波及したと推測する。後に主流となる「亀卜の卜部」は、中臣氏と「系図」的に縁の深い「伊豆の卜部」と言える。「卜術の職」は、巡り廻って最後にまた中臣氏系列に戻ったことになる。
『宮主秘事口伝』の「神の諡号(死後の名)」について
最後に、『宮主秘事口伝』で「神の諡号」について言及する部分を抜き出し、その読み(現代語訳)を試みる。底本とするのは、「神道大系」本『神道集成』所収の「宮主秘事口伝」(P182~183)とする。
<原文1>
暦応元年(1338)十二月二十六日丙戌。
今日兼豊参殿下〔一条殿〕、有御対面。
條々、被仰下云、大祀壽詞奏秘説<登天>一紙被下之、
諡号事、尊号事、在此注文、御不審也。委可注申、云々。
兼豊帰草之後、予被見之、是文永十一年(1274)、大祀之時。
祭主為継卿、不知壽詞文也。
争可為其職之旨、隆陰卿訴申之。
其時隆陰卿注進之状也〔実者、故兼文宿祢之勘草歟〕。
予即勘注之畢。
*(<>内の文字は万葉仮名を、〔 〕内は原文の注を示す。以下同じ)
<私見>
暦応元年(1338)十二月二十六日丙戌。
今日、兼豊、殿下(一条殿のもとに)に参り、御対面あり。
條々、仰せ下されて云うには、大祀の壽詞奏の秘説として一紙下され、諡号の事や尊号の事が、この注文にあるが、いぶかしきことなり。委しく注し申すべき云々と。
兼豊、帰宅の後、予これを披見すれば、是は文永十一年(1274)、大祀の時(の注文)なり。
(時の)祭主の為継卿は壽詞の文を知らずなり。いかでかその職たるべき旨を、隆陰卿が訴え申す。
その時の隆陰卿注進の状文なり〔実は、故兼文宿祢の勘草か〕。
予即ち是に勘注し終わる。
<語注>
【暦応元年(1338)】北朝の光明天皇の年号。(南朝は延元三年、後醍醐天皇。)
【一条殿】関白一条経通(つねみち:時に22歳)。
【大祀】大嘗祭。「まさしく天照おほん神をおろし奉りて、天子みづから神食をすすめ申さるる事なれば、一代一度の重事これにすべからず。」(関白一条兼良著『代始和抄』)
【壽詞(よごと)奏】「凡践祚之日、中臣奏天神之壽詞、忌部上神璽之鏡釼。」(神祇令)
【注文】注進状(報告書)の一種で(事柄を)明細書きしたもの。(佐藤進一著『古文書学入門』)
【不審】疑わしいこと。いぶかしいこと。
【帰草】の「草」が意味不明であるが、草葺きの自宅を意味するか。
【文永十一年(1274)】後宇多天皇。十月五日より蒙古が来襲する「文永の役」の年。「文永十一年(中略)十月五日異国群勢襲来之由、自宰府<太宰府>申之。同十三日異国軍兵乱入壹岐島。同十四日彼島守護代庄官以下悉被打取云々。対馬以同前。同十九日亥刻(PM9~11時)攻来筑前国、早良郡。同二十日始合戦宰府等、敗北了。」(一代要記)
【為継】「神祇権少副大中臣為茂男。文永十年(1273)五月任。在任二年。正応二年(1289)十二月廿四日還補。」(祭主次第)
【隆陰】「大中臣隆通卿二男。正元元年(1259)任。在任十一年。文永十一年(1274)十一月還補。弘安二年(1279)十二月廿一日卒。」(祭主次第)
【兼文宿祢】文永十年(1273)二月十四日『古事記裏書』をあらわす。『釈日本紀』の著者の卜部兼方の父。
【勘草】考え調べた事を記した草案。
<原文2>
壽詞秘説事
皇親神漏伎、神漏美<乃>命<乎>持<天>。
口傳曰、謂天神壽詞者、傳神語、奏天子之祝言也。
仍天神御名、不読諡号、奏尊号也。
神漏伎、神漏美者、是諡号也。
諡者死後之称、累生時之行而諡之、云々。
我后万壽之初、有所憚之故、不読諡号者也。
自夕日朝日照<萬天>天都詔刀<乃>太詔刀詞<乎>宣<禮>。
口傳云、斎忌神膳之時、至于次神膳之時、殊祈請之儀也。
読様有口傳、大嘗宮臨幸之時、各解除之後、唱祝言頌、随御歩。
其中間、猶凝丹祈之儀也。
十二箇口傳之内、注申二箇条。自余十箇之口傳、同為君為世也。
為継天神之号、殆不辨何神歟。
況不傳神語、以何奏之。
(原文2の赤字は安江和宣氏の「校訂本」にて修正。)
<私見>
壽詞(よごと)秘説の事
皇親神漏伎(すめむつかむろぎ)、神漏美(かむろみ)の命(みこと)を持て。
(注釈部分)
口伝に曰く、天神の壽詞と謂うものは、神のことばを伝え、天子に奏する祝言なり。
よって天神の御名は諡号(シゴウ)を読まずに、尊号を奏するなり。
神漏伎、神漏美は、これ諡号なり。
「諡」は死後の名で、生時の行いを(かんがえ)かさねて、これにおくり名(諡)をつける云々。
我が君の万壽の初め(即位の時)に、(死後の名は)憚るところある故に、諡号は読まざるものなり。
夕日より朝日が照まで、天都詔刀(あまつのりと)の太詔刀詞(ふとのりと)を宣(の)れ。
(注釈部分)
口伝に云う、いつきいむ神膳の時(夕食)より、次(すき)の神膳の時(朝食)にいたるまで、ことさらに祈りこう儀なり。
読む様は口伝にあって、(天皇が)大嘗宮臨幸の時、各解除(はらへ)の後、祝言の頌(ショウ)を唱えること、(天皇の)御歩みに随う。
そのあいだは、猶まことの祈をこらす儀のごとし。
十二箇の口伝の内、二箇条を注し申す。自余の十個の口伝も同じく、君のため、世のためなり。
天神の号を(となえ)継ぐことを為して、ほとんど(神漏伎、神漏美が)何の神かをわきまえないか。
まして神語を伝えずして、何をもって奏するや。
<語釈>
【天神壽詞】中臣壽詞とも言われる。『延喜祝詞式』には所収されていないが、藤原頼長の『台記別記』の康治元年(1142)11月条に残る。「現御神<止>大八嶋国所知食<須>大倭根子天皇<我>御前<仁>、天神<乃>寿詞<遠>称辞竟奉<良久止>申<須>。高天原<仁>神留坐<須>皇親神漏岐神漏美<乃>命<遠>持<天>、八百万<乃>神等<遠>集<陪>賜<天>、皇孫尊<波>、高天原<仁>事始<天>、豊葦原<乃>瑞穂<乃>国<遠>安国<止>平<介久>所知食<天>、天都日嗣<乃>天都高御座<仁>御坐<天>、天都御膳<乃>長御膳<乃>遠御膳<止>、千秋<乃>五百秋<仁>、瑞穂<遠>平<介久>安<介久>、由庭<仁>所知食<止>、事依<志>奉<天>、天降坐<之>後<仁>(中略)自夕日朝日照<萬天>天都詔刀<乃>太詔刀詞<遠>以<天>告<禮>・・・」(台記別記)
【斎忌神膳】大嘗祭が行われる大嘗宮は、「悠紀(ゆき)殿」と「主基(すき)殿」の二殿が造営され、「斎忌神膳」は悠紀殿での神膳(夕膳)。「悠紀は斎忌といふ心なり。」(代始和抄)
【次神膳】主基殿での神膳(朝膳)。「主基は次といふ文字をすきとよめり。」(代始和抄)
【解除】はらへ。「世俗には河原の御はらへといふ。解除をば河にのぞみて修する・・」(代始和抄)
【頌】ショウ。たたえる歌や詞。
<原文3>
壽詞奏事
先代舊事本紀曰、神武天皇元年正月庚辰朔、都橿原宮、肇即皇位也。
宇摩志麻治命奉献天瑞、乃竪神楯、以斎、云々。
天富命率諸國忌部、捧天璽鏡劔、奉於正安殿。天種子命奏天神壽詞。即神代古事類是也。
神祇令曰、凡践祚之日〔謂天皇即位、謂之践祚。祚位也。〕、中臣奏天神之壽詞〔謂以神代之古事、為万壽之寶詞也。〕、忌部上神璽之鏡釼〔謂璽信也。猶云神明之徴信也。此即以鏡釼為璽。〕。
一、皇親神漏伎、神漏美命事
兆傳曰、皇親神漏伎〔天照太神之諡也〕、神漏美命〔高御産巣日神之諡也〕。
如此文者、神漏伎者、天照太神之諡也。神漏美尊者、高皇産霊尊之諡也。
尊号者、天照太神、高皇産霊尊也〔神祇官八神殿之内也〕。
一、自夕日朝日照<万天>天都詔刀<乃>太詔刀詞<乎>告<禮>。
今按、夕日朝日者、夕膳朝膳供奉之禮也。天都詔刀者、神代之昔、於天上有此儀。
故天都詔刀<登>云也。都字助語也。
<私見>(「先代舊事本紀」と「神祇令」からの引用部分は省略。)
一、皇親神漏伎(すめむつかむろぎ)、神漏美(かむろみ)の命の事
兆傳に曰く、皇親神漏伎〔天照太神の諡(おくりな)なり。〕、神漏美命〔高御産巣日(たかみむすひ)の神の諡なり〕。
(注釈部分)
かくのごとき文は、神漏伎は、天照太神の諡なり。神漏美の尊(みこと)は、高皇産霊尊の諡なり。
尊号は、天照太神、高皇産霊尊なり。〔(高皇産霊尊は)神祇官八神殿の内なり〕。
一、夕日より朝日の照るまで、天都詔刀(あまつのりと)の太(ふと)詔刀詞をのべよ。
(注釈部分)
今、考えるに、夕日、朝日は、夕膳と朝膳の供奉(グブ)の礼なり。天都詔刀は神代の昔、天上にこの儀あり。
故に、天都詔刀(あまつのりと)というなり。「都」の字は、助語(助詞)なり。
<語釈>
【兆傳】恐らく『釈日本紀』に所載される『亀兆傳』(現存しない)であろう。これとほぼ同文である。「亀兆傳曰、凡述亀誓。皇親神魯伎〔天照太神之諡也〕、神魯美命〔高御産巣日神之諡也〕」(国史大系本『釈日本紀』P.78)。「彼の書(亀兆傳)は、古(いにしへ)より伝はれる鹿の卜を廃(すて)て、亀卜をあまねく世に用ひしめむために作れる虚言・・・」(本居宣長著『古事記伝』)
【神祇官八神殿】神祇官の西院神殿の一つで、御巫が祭る八つの神。「御巫祭神八座。神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮売神、御食津神、事代主神」(延喜神名式)。
上記より「皇親神漏伎、神漏美命」が天照太神と高皇産霊尊の諡号という説は、卜部が「口伝」や「亀兆傳」などで伝えてきたものであろう。諡号とは死んだ後の名前であり、神に諡号を付けたと言うことは、その神は死んでいることになる。これをどう解釈して良いか迷うが、天神がいる天上の高天原(たかまがはら)に、この神は既にいないと言う意味であろうか。天照太神については、垂仁紀に「其祠立於伊勢國。因興齋宮干五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神始自天降之處也。」とあり、既に天上から降りた事が記される。しかし、高皇産霊尊に関してはその様な記載は無い。恐らく「皇親神漏伎、神漏美命」は、最後に敬称の「命(みこと)」がついている事からもわかるように、二神ではなく、「皇親神漏伎神漏美命」と一神を指すのが本来の意味であろう。そしてこれは天照太神の別号であろう(後に「「神漏伎、神漏美」私考」で改めて考察)。
尚、当然であるが、「皇親神漏伎神漏美命」という称号は、朝廷祭祀や宣命に見られるもので、「伊勢神宮」側では使われない。