「古事記序文」疑義十項目について 2012/10/29 (2021.12.9補訂)
大和岩雄氏は、その著『古事記成立考』(大和書房・1975年)の中の「『古事記』序文が和銅五年に書かれたことは疑わしい」で、中沢見明氏、西田長男氏、筏勳氏、川副武胤氏などの論説から、「古事記序文」に対する疑義十項目をまとめています(『古事記』序文を偽作とみる十の理由―P.20~22)。これを転写し、これらに対する私見を項目ごとに述べます。
一、『古事記』成立より後で完成した『日本書紀』が『古事記』を参考にしていないこと。また『続日本紀』の和銅年間の条に、『古事記』撰録のことが、まったく記されていないこと。
「私見」
1)「『日本書紀』が『古事記』を参考にしていない」と言われるが、欠史八代などを含めて皇統次第は『古事記』の配列と同じであり、各天皇の名称もほぼ同じである。また『日本書紀』のような正調漢文史書の編纂動機は、現行『古事記』が雄略記以降未完の中途半端で終わっていることから推測すると、『古事記』の反省の上に計画されたものとも考えられる。天武天皇の当初の編纂は、稗田阿禮に覚えさせた様に、口語(勅語)による「口伝形態」であったでろう。稗田阿礼の記憶に残る古語の勅語を漢語漢文で、文書化したのが、太安万侶である。
2)「『続日本紀』の和銅年間の条に、『古事記』撰録のことが、まったく記されていない」については、『古事記』には、編纂過程が載る「序文」が付いているので、その必要性は無いからであろう。『古事記』だけでは無く、後の「六国史」についても「編纂成立」記事は、史書「本文」の中にはなく、「序文」があるだけである。その中で『日本書紀』は、特別に『続日本紀』に編纂成立記事が載るが、これは『日本書紀』の「序文」が失われたためと思われる。『続日本紀』も「序文」が付けられていないが、『日本後紀』にその「序」を兼ねた「上表文」が転載されている*1。これは『続日本紀』の編纂過程が、数度にわたる手直しがあったからと思える*2
*1『日本後紀』が転載する『続日本紀』の「上表文」参照。
二、序では天武天皇が稗田阿礼の聡明を激賞したと書いているが、『日本書紀』の天武天皇の条にはそのことが記されていないし、稗田阿礼や稗田姓は天武紀以外にも『書記』には見あたらず、『続日本紀』にも記されていない。このように実在性の薄い人物である稗田阿礼に、重要な役割を果たさせていること自体が、『古事記』序文を疑わせる要因になること。
「私見」
稗田阿礼は無学の無位無官である。このような者がいくら優秀であってもそもそも史料に載ることは稀であろう。また、無学の無位無官で天皇に近習出来るのは、恐らく伝統を持つ采女であり『弘仁私記序』が言う「天鈿女命之後」が、これに最も相応しいと言える。つまり稗田阿礼は女性でありながら「君」の呼称がつく猿女で、和銅年間当時は、元明天皇にも近習した初老のおばばであろう。
三、稗田阿礼はまったく文献に現れてこないが、太安万侶は『続日本紀』には記されている。しかし、安万侶が元明天皇の勅命で撰録したという重要な勅撰書編纂の事実が、安万侶のことを数カ所も記している『続日本紀』はまったく書き落としており、不可解であること。
「私見」
「一、二」の私見参照。
四、他の多くの序文上奏文では、学識才能について謙辞を用いている。謙辞らしい書き方より、稗田阿礼の聡明ぶりを強調したり、自己の表現技術の苦心を吹聴したりする、宣伝臭の濃い異例な書き方は、もし『古事記』が正史に記載されない私本的性格のものとしたら、矛盾すること。
「私見」
序文に「謙辞」が少ないのは当然である。なぜなら『古事記』とは、天武天皇の勅語(口述編纂物)を漢語漢文に翻訳したものである。その記憶する古語の勅語を語るのが稗田阿礼である。
五、序では天武天皇即位以来修史のことなしと書いているが、天武十年には川嶋皇子等に勅して帝紀を記させているのだから、『古事記』序文はおかしいこと。
「私見」
「天武天皇即位以来修史のことなし」という記述は序文にない。これは序文の「然運移世異、未行其事矣。」を指して言っていると思うが、この文は、稗田阿礼に記憶させた口述形式の修史が未完のまま放置されたと言うことである。天武十年の修史の記事は、この「口語形式の修史」から「文書形式の修史」に変更したものと思われる。しかし、これは実行された痕跡は無い。恐らく同時期の律令編纂事業が優先されたからではないか。
六、序文の太安万侶の署名には「官」が落ちており、稗田阿礼の「姓」の書き方は 「氏」と混同しており、このような不完全、不明瞭な記載は、安万侶が書いたものとは思えないこと。
「私見」
1)太安万侶の署名の書き方は、基本的に彼の墓碑の書き方と同じである。
特に問題は無い。
2)また「稗田阿礼の「姓」の書き方は「氏」と混同」と言うが、「姓稗田、名阿禮」と言う書き方は「漢文」の書き方である。また『令義集』「戸令」に「古記云、水海大津宮(天智天皇)庚午年籍・・・以此定姓、造籍。」とある。
そもそも「氏」と「姓」は、中国でも漢の時代より「混同」されている。
七、勅撰書の性格からして、正五位下程度の位階の者の単独署名は異例であり、『古事記』のみが特異な任命、単独編纂というのみ、あまりに異例すぎておかしいこと。
「私見」
太安万侶への勅命は、「勅撰史書」の編纂ではない。基本的には、阿禮が天武天皇に覚えさせられた倭語の勅語を漢語漢文に「翻訳」することだけである。
つまり、『古事記』制作作業は、天武天皇が未完成で放棄した「口述編纂物」の文字化と言う事務的作業である。
八、序文が、上表文の形式をとっているが、このような書き方は、主に平安朝以降からであるから、和銅年間成立は疑わしいこと。
「私見」
「序文」と「上表文」の基本的な違いは、読み手の対象の違いにある。「序文」とは、字の如く書の初めの文であり、主に読者を対象にする。「上表文」とは、天子に上奏する文である。つまり、読み手が不特多数ではなく、天皇のみが読者対象なら「序文」も「上表文」形式となるであろう*1。
*1 私見の「『日本書記』から消えた序」を参照。
九、和銅五年の日付の序文が和銅六年以降に書かれた文章を参考にしていることからみて、『古事記』の序は、和銅六年以降に書かれたと考えられること。
「私見」
「和銅六年以降に書かれた文章を参考」と言うが、そう言い切れる根拠はない。恐らく序文の「壬申の乱」の記述部分を指すのであろうが、「壬申の乱」は当時の近年の大事件であり、これを記録、記憶するものは多くあったと推測でき、情報源を特定することは出来ない。
一〇、本文で厳密に使い分けている用語が、序文では精密さを欠くなど、本文と序文に統一性がないこと。
「私見」
太安万侶に対する勅命は、「撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭。」である。本文は、天武天皇の勅語舊辭(古語の勅語)であり、それの漢語漢文への忠実な(謹随詔旨)翻訳が主体である。この本文と太安万侶の序文との間には、制作者の違い(天武天皇と太安万侶)や天武の時代と和銅五年という時代の違いもあり、統一性がないのは当然と言える。
「補足」
「古事記序文」の中で、太安万侶は、話し言葉の古語の漢語漢文への翻訳の難しさを
上古之時言意並朴、敷文構句於字即難。已因訓述者、詞不逮心。全以音連者、事趣
更長。
<上古の時の言意は並びに素朴で、(口語の)敷文構句は、漢字に於いては難し
い。(それは)おおいに字訓によって述べれば、詞は心に及ばず。まったく
(仮名として)字音で連ねれば、事の趣旨を述べるのに更に長くなる。>
と言う。また
於姓日下謂玖沙訶、於名帯字謂多羅斯、如此之類随本不改。
<姓での日下はクサカと言い、名での[帯]の字はタラシと言う。このような類い
は本に随い改めず。>
と言うが、この「本」とは、恐らく天武天皇により既に文字化(撰録)された「帝
紀」を指すと思われる。「帝紀」と「帝皇日継」は、内容的には同じものと言える
が、前者が「撰録帝紀」と言うように「文字化」されたもので、後者は特に限定さ
れない。「古事記序文」の「勅語阿礼令誦習帝皇日継及先代旧辞」の「帝皇日継と
先代旧辞」は阿礼の記憶で記録されたものを指すものと思う。太安万侶の序文には
次のように記す。
以和銅四年九月十八日、詔臣安万侶、
<稗田阿礼が暗誦する所の勅語の“旧辞”を撰録>
※「帝紀」も見ながら、阿礼の語る「旧辞」を選録(漢語翻訳)したか。
結語
以上見てきた所では、「「古事記序文」に対する疑義十項目は、ほとんどが見当外れと思える。その原因を考えると、「記紀」など「勅撰史書」の編纂目的は、「世間に流布させるため(公開目的)」と言う先入観があるのであろう。しかし古代の「史書」とは、延暦十六年の『続日本紀』に関する上表文に「垂百王之亀鏡」と言うように、主に「主権者」が読むためのもので、必ずしも臣下、臣民を読者対象としていないし、基本的に所謂「非公開文書」である。だから、これら「史書」類には、編纂過程が記述される「序」が付けられ、各史書(六国史)の本文には、「編纂成立」記事は載せていない。ただ『日本書紀』は、嵯峨天皇の弘仁年間から約三十年に一度のペースで、参加者を限定して、六度の講書会が開かれた(この目的は「弘仁私記序」に載る)。
「歴史書」が、臣民に対するプロパガンダ的色彩が強くなるのは、明治以降の近代からと言える。