『日本書紀』に引用される「百済史料」
『日本書紀』から「百済記」・「百済新撰」・「百済本記」を以下に抄出します。
<百済記>
「神功皇后摂政四七年(丁卯二四七)四月」
百濟記云。職麻那那加比跪者。蓋是歟也。
「神功皇后摂政六二年(庚午二五〇)二月」
百濟記云。壬午年。新羅不奉貴國。貴國遣沙至比跪令討之。新羅人莊餝美女二人。迎誘於津。沙至比跪受其美女。反伐加羅國。加羅國王己本旱岐。及兒百久至。阿首至。國沙利。伊羅麻酒。爾汶至等。將其人民。來奔百濟。百濟厚遇之。加羅國王妹既殿至。向大倭啓云。天皇遣沙至比跪。以討新羅。而繩新羅美女捨而不討。反滅我國。兄弟人民皆爲流沈。不任憂思。故以來啓。天皇大怒。既遣木羅斤資。領兵衆來集加羅。復其社稷。一云。沙至比跪知天皇怒。不敢公還。乃自竄伏。其妹有幸於皇宮者。比跪密遣使人間天皇怒解不。妹乃託夢言。今夜夢。見沙至比跪。天皇大怒云。比跪何敢來。妹以皇言報之。比跪知不兔。入石穴而死也。
「応神天皇八年(丁酉二七七)三月」
百濟記云。阿花王立旡禮於貴國。故奪我枕彌多禮。及峴南。支侵。谷那東韓之地。是以遣王子直支于天朝。以脩先王之好也。
「応神天皇二五年(甲寅二九四)」
百濟記云。木滿致者是木羅斤資討新羅時。娶其國婦而所生也。以其父功專於任那。來入我國往還貴國。承制天朝執我國政。權重當世。然天皇聞其暴召之。
「雄略天皇二十年(丙辰四七六)冬」
百濟記云。盖鹵王乙卯年冬。狛大軍來。攻大城七日七夜。王城降陷。遂失尉禮國。王及大后王子等皆沒敵手。
<百済新撰>
「雄略天皇二年(戊戌四五八)七月」
百濟新撰云。己巳年。葢鹵王立。天皇遣阿禮奴跪來索女 郎。百濟荘飾慕尼夫人女曰適稽女 郎。貢進於天皇。
「雄略天皇五年(辛丑四六一)七月」
百濟新撰云。辛丑年盖鹵王遣王遣弟昆攴君。向大倭侍天皇。以脩先王之好也。
「武烈天皇四年(壬午五〇二)是歳」
百濟新撰云。末多王無道暴虐百姓。國人共除。武寧立。諱斯麻王。是混攴王子之子。則末多王異母兄也。混攴向倭時。至筑紫嶋生斯麻王。自嶋還送。不至於京産於嶋。故因名焉。今各羅海中有主嶋。王所産嶋。故百濟人號爲主嶋。今案嶋王。是蓋鹵王之子也。末多王是混攴王之子也。此曰異母兄未詳也。
<百済本記>
「継体天皇三年(癸丑五〇九)二月」
百濟本記云。久羅麻致支彌從日本來。未詳。
「継体天皇七年(癸巳五一三)六月」
百濟本記云。委意斯移麻岐彌。
「継体天皇九年(乙未五一五)二月丁丑(四)」
百濟本記云。物部至連。
「継体天皇二五年(辛亥五三一)冬十二月庚子(五)」
冬十二月丙申朔庚子。葬于藍野陵。
〈或本云。天皇廿八年歳次甲寅崩。而此云。廿五年歳次辛亥崩者。取百濟本記爲文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅營乞乞乇城。是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子皇子倶崩薨。由此而。辛亥之歳當廿五年矣。後勘校者知之也。〉
「欽明天皇二年(五四一)七月」
百濟本記云。加不至費直阿賢移那斯佐魯麻都等。未詳也。
「欽明天皇五年(五四四)二月」
1)百濟本記云。津守連己麻奴跪。而語訛不正。未詳。
2)百濟本記云。河内直移那斯。麻都。而語訛未詳其正也。
3)百濟本記云。汝先那干陀甲背。加臘直岐甲背。亦云。那哥陀甲背。鷹哥岐彌。語訛未詳。
4)百濟本記云。爲哥岐彌。名有非岐。
「欽明天皇五年(五四四)三月」
1)百済本記云。遣召烏胡跛臣。盖是的臣也。
2)夫任那者以安羅爲兄、唯從其意。安羅人者、以日本府爲天、唯從其意。百濟本記云。以安羅爲父。以日本府爲本也。
3)百濟本記云。我留印支彌之後。至既酒臣時。皆未詳。
4)百濟本記云。冬十月奈率得文。奈率哥麻等還自日本曰。所奏河内直移那斯。麻都等事。無報勅也。
5)百濟本記云。十二月甲午(廿)。高麗國細群與麁群戰于宮門。伐鼓戰闘。細群敗不解兵。三日。盡捕誅細群子孫。戊戌。《廿四》狛鵠香岡上王薨也。
6)百濟本記云。高麗以正月丙午。立中夫人子爲王。年八歳。狛王有三夫人。正夫人無子。中夫人生世子。其舅氏麁群也。小夫人生子。其舅氏細群也。及狛王疾篤。細群。麁群。各欲立其夫人之子。故細群死者二千餘人也。
「欽明天皇十一年(五五〇)二月庚寅(十)」
百濟本記云。三月十二日辛酉。日本使人阿比多率三舟來至都下。
「欽明天皇十一年(五五〇)四月庚辰朔」
百濟本記云。四月一日庚辰。日本阿比多還也。
「欽明天皇十七年(五五六)正月」
百濟本記云。筑紫君兒。火中君弟。
<以上>
『百済記』と『百済新撰』には日本との交流記事が載るが、『百済本記』には、人名の百済側表記の注記が主体で、日本側との交流記事はほとんどない。何故なら「取百濟本記爲文。」(継体天皇25年)とあるように、「日本書紀」の本文に既に採用されているからであろう。『百済記』、『百済新撰』は、「百済」を「來奔百濟。」や「百濟荘飾慕尼夫人女」など第三者的な視点で呼んでいる事から考えるに、恐らく「日本世紀」や「日本旧記」と同じように、外国人僧による民間書であろう。一方『百済本記』は、「日本書記」本文に採用されている所から見ると、百済官僚に拠る「正史」と思える。