「和邇氏系図」の調査報告 2018.10.23

  

(はじめに) 系譜、系図とは、子種は男に有りと信じられていた時代の男系中心の幻想的親子関係を示すものであり、「出自による身分制社会」の根本史料である。「出自による身分制社会」とは、先祖の血筋や功績が子孫の待遇を決める天皇を頂点とする世襲社会のことであり、当時としては安定した社会秩序をもたらす唯一の方法と言える。

 朝廷による各氏族の系譜、系図の編纂事業は、『古事記』『日本書紀』をへて、『新撰姓氏録』で一応の完成を見るが、朝廷権力が衰退し、下克上の戦乱をへて、安定した社会秩序を取り戻した徳川幕府でも『寛永諸家系図傳』『寛政重修家譜』などの事業が行われた。つまり、時の権力者にとっては重要な事業と言える。『寛永諸家系図傳』の序(寛永二十年癸未九月吉日 従五位下太田備中守源資宗)に「系図事業」の効能を次のように述べる。「諸家その官禄をしるす時は、御恩のあつき事を忘れず、その勲功を載する時は、先祖のつとめを思うべし。しかれば、忠孝の道、無窮の徳とともに、千萬の後までたれか仰ぎ奉らさらんや。」

 また、その「示諭」で、編纂関係者に注意点を幾つか与えているが、その一部を次に抜粋する。

 「あるひは、百年二百年のはるかにへだたるものをもって、まのあたり父・子・孫の世系とするものあり、或ひは、みだりに系図を作りて、ひそかに其断絶を補うものあり(中略)よろしくこれを評議すべし。」

 「其氏の出る所をあやまりて、他の先祖を以て我が先祖とする事(中略)姓名同じくしてその人は別(中略)地ことなりといえども、その種は同じ(中略)ともに花といふと言へども、その樹ことなり(中略)かくのごときの誤り、あげてかぞふべからず。」

  *(株式会社群書類従完成会版(活字本)・昭和六十三年十一月第二刷)

  *一部平仮名を漢字に直しました。

 本朝の「姓」とは天皇との関係性を示すもので、今までに二度、大規模に「姓」が人民に付けられた時期がある。一つは、古代の公地公民制度(戸籍制度)によるものと、もう一つは、國民がすべからく天皇の赤子となった明治政府(大日本帝国)の時である。これらによって「同姓異系統」の「姓」が大量に発生したものと思える。「姓」を研究するものは、以上の事に最も注意を払う必要があろう。

 (膨大な数を扱い、その真偽を一つ一つ確認する「姓氏研究」は、労多くして功少なき分野か・・・・)

 

 「系図」とは

 諸氏族の系譜には、文章で表した「文書形式」と名前を直線で結んだ「図形式」の二つがあり、後者が所謂「系図」である。「系図」には、上から下へと書かれた「竪系図」(国宝「海部氏系図」等)と、横に書かれた「横系図」(『本朝皇胤紹運録』等)と、二つを合わせた「竪横併用」がある(『尊卑分脈』等)。「和邇氏系譜」の基本史料は、『古事記』や『日本書紀』を含む「六国史」と『新撰姓氏録』で、そこには、文書形式で断片的に系譜が書かれている。この基本史料の情報源は、諸氏が自己申告した系譜である。そもそも皇家に皇家の記録を掌る史官が設けられるのは「大宝律令」以降であり、それまでは皇家に奉仕した諸氏族の家伝(口伝や文書)が各種記録を伝えてきた。

  *「諸家之所齎帝紀及本辞」(「古事記」序文)

  *「詔十八氏〈大三輪。雀部。石上。藤原。石川。巨勢。膳部。春日。上毛野。大伴。紀伊。平群。羽田。阿倍。佐伯。釆女。穂積。阿曇。〉上進其祖等墓記。」(『日本書紀』持統五年(六九一)八月辛亥《十三》)

  *「凡厥天平勝寶之前(聖武天皇以前)<感神天皇號也。世號法師天皇。>、毎一代使天下諸氏各獻本系。」(「弘仁私記序」)

  

「和邇氏系図」とは

 世間で所謂「和邇氏系図」と言っているものは、太田亮編纂『姓氏家系辞典』(昭和3811月初版)の中の「和邇系図」であろう。太田亮氏はほとんど独力で各種資料をもとにこの辞典を編纂されたという(大変な労作である)。

 この「和邇系図」の具体的情報源は述べていないが、文中に「駿河浅間大社の大宮司家は和邇部氏にして系図を伝ふ」と言っているので、恐らく浅間神社社務所編『浅間文書纂』(昭和六年)所収「第六案主富士氏記録」の「四 別本大宮司富士市系図(活字)」であろう。(今回はその名著刊行会による「復刻本」(昭和四十八年)を拝見しました。)

 そこには、「富士大宮司系図<姓 和邇部臣>」(<>内は小字)とあり、内容的には太田亮氏の『姓氏家系辞典』と同じである。しかし、系図の中を読んでみると「和邇部臣」と呼称したのは「大矢田宿禰命」から七世後の「鳥」からであり、しかもその代で「真野臣」を呼称する。系図には「鳥」の弟の「務大肆忍勝」が「真野臣」を呼称したかのように書かれているが、『新撰姓氏録』「真野臣」では、「佐久命(大矢田宿禰命の子)九世孫和珥部臣鳥、務大肆忍勝等、居住近江国滋賀郡真野村、庚寅年負真野臣姓」とあり、ここでは「等」とあるので二人同時の改姓である。つまり駿河浅間大社の大宮司家の本姓は「和邇部臣」と言うより「真野臣」であろう。そして、彼らの「和邇部臣」や「真野臣」以前の「姓」は不明であり、『浅間文書纂』所収「富士大宮司系図」(活字版)の原本も不明である。

  また、「富士大宮司(和邇部臣)系図」と題する系図が静岡県編集『静岡県史』「資料編4 古代」(平成元年三月)に所収されているが、これは先の浅間神社社務所編『浅間文書纂』(活字本)を転載したものであり、内容は同じだが、新たに「富士大宮司(和邇部臣)系図」と題が付けられた。

  その他には、中田憲信編纂『各家系譜』「第四冊・大久保家家譜草稿」(国会図書館所蔵。草稿原稿の写真版)があり、その大久保家の系譜の上古部分が『浅間文書纂』所収「富士大宮司系図」と似ている。この系図は明治の末年に大久保春野が男爵になった折に提出したものと言われ(さだかではない)、宮内庁書陵部に収蔵されていると言うが、誰もそれを確認した者はいない。中野憲信が何を情報源として「大久保家家譜草稿」を書いたのかも不明のままである。

  ちなみに、宝賀寿男著『古代氏族系譜集成』(昭和六十一年四月)にも「和珥臣氏系図」を載せるが、これは彼が諸資料を元につくた復元系図で「史料」と言うより「参考資料」である。

  

結論

世間で所謂「和邇氏系図」と言っているものの原本は、今の所、どれも存在の確認は取れていない。個人的にだが、この手の「系図」資料は使わない方がよいであろう。使わなくともこの程度の上古の系譜は、「古事記」や「六国史」、「新撰姓氏録」などでも知ることが出来る。