『古事記』天孫降臨の段の検討 2010/12/10(2021.09.22補訂)
皇孫が地上へと降りる「天孫降臨」部分は、本来なら一番華々しい所だが、なぜか本文は、曖昧で、難解な文となっている。そこで、以下に天孫降臨部分の「古事記」情報を整理して、その実態をここで検討したい。
「神勅」と「降臨スタッフ」
<神勅> *天照大神等の命令。
「科詔日子番能迩々芸命、此豊葦原水穂国者、汝将知国、言依賜。」*皇孫への神勅
<詔(命令)を孫ノほのににぎノ命に科して、「この(地上の)豊葦原水穂ノ水穂ノ国は、汝がこれから治める国なり」と、言(こと)よせたまう。>
*【科(カ)】:かす。負わせる。負う。「令負(おはせ)の意なり」(「古事記伝」)
*【日子】:「ひこ」とは孫や子孫を言う。『倭名類聚鈔』に「孫;和名“無萬古”。一云“比古”」
*【将】:まさに。これから。ことが起こる直前。
*【知】:しらす。治める。「知;管理 [administer](動詞)」(漢典)
「此之鏡者、専為我御魂而、如拝吾前、伊都岐奉。」*皇孫への神勅
<この鏡は、ひたすら我が御魂と思って、吾が前を拝むが如く、いつきまつれ>
*【専】:もっぱら。ひたすら。
*【為】:思う。「為;以為[think]」(漢典)
*【拝】:
*【伊都岐】:いつき(斎)。「いつ・く」の連用形。「けがれを除き、身を清めて神に仕える。」(学研古語辞典)
<次に、思金(おもいかね)の神は、目の前の事を取り持って政事をなせ。>
*【前事】:先のこと。目の前のこと。「古事記伝」に「前事;祭祀の行事を云には非らず(中略)御政を云なり」と言う。
*【取持】:とりもちて。「執行(とりおこなふ)を云なり」(「古事記伝」)
*【政】:政事。「政;政治。政事。」(漢典)。
<形見の器物>
「於是副賜(中略)八尺勾玉、鏡及草那芸釼」(所謂三種の神器)
<地元水先案内人>
「僕者国神、名猿田毘古神也。」
「所以出居者、聞天神御子天降坐、故仕奉御前而、参向之侍。」
<出て居る理由は、天神の御子が天降りますことを聞き、それで、御前に仕え奉らんとして、これに参上して、はべるなり。>
*【参】:まいる。参上する(古語の行く、来るの謙譲語)。
*【向】:漢語での介詞(前置詞)で、これに対応する日本語は後置性「格助詞」の「に」。この「介詞」の目的語は「之」で、上文の「仕奉御前」を指す。「向;對也。」(廣韻)。「向;表動作的方向、對象。」(漢典)。
*【侍】:はべる。古語の「居る」の謙譲語。
<神官職>
「天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命、并五伴緒。」
<宰相>
常世思金神。
<武官職>
手力男神(護衛)。天石門別神(守衛)。
<現地編入武人>
「天忍日命(大伴)、天津久米命二人(中略)立御前而仕奉。」
これで見ると、大伴氏は、天照大神が選任した降臨スタッフにはいっていない。また同じ降臨スタッフでも思金神、手力男神、天石門別神の三名は、地上に降りた後の子孫は絶えている。特に宰相として政事を担うべき「思金神」は行方不明である。
「伊勢神宮」の存在 2010/12/10(2021.09.22補訂)
「神鏡」を祭る形態としては、「古事記」の当該神勅には「日本書記」の様に「同床共殿」と具体的に書かれていないが、神勅の「伊都岐奉<いつき奉れ>」からすれば「宮中」での「親祭」である。それが宮中でも畿内でもない外国の伊勢に移しての「伊勢神宮」で祭る行為は違勅的である。しかも「日本書記」(垂仁天皇二十五年三月条)に、
其祠立於伊勢国。因興斎宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神始自天降之處也。
<その祠を伊勢の国に立てる。よって斎宮(いつきのみや)を五十鈴川のほとりに興す。則ち(そこは)天照大神が始めて天より降りた処である>
とあって、祭る対象が「神鏡」だけでなく、「天照大神」も地上に降ろして、二柱神となってしまった。
しかし、なぜこのような不都合をも「日本書記」は書いたのかと、つらつら考えれば、所謂「神勅」や「降臨」は、王権の唯一の拠り所であり、斬っても切れない関係であるからであろう。そのため一番クライマックスであるはずの「神勅」や「降臨」場面が曖昧となり、「神話」の中でも一番難解な記述となったか。宗教心が薄い現代人は、創作でどうにでも書けると思いがちだが、宗教心の濃い時代ではそうはいかないであろう。この世は天や神が作り、現実に起こる事象は、人と神とがおりなすものであり、その事象から天や神の意志(啓示)を知ることも記録の意義であったと思う。古代中国人達が天子の言動を天文観察と同じように、こまめに記録(「起居注」)したのも同じ事であろう。
「此二柱神者」について 2010/12/11(2021/9/25補訂)
降臨の段には次のような不可解な文がある。
この文は一部倭語(佐久久斯侶伊須受能)が使われているが、基本的には漢語文で、「目的語(此二柱神)」が主語の位置に倒置されている。通常は、「拜祭(する)、此二柱神(を)、伊須受能宮(に)」で、「此二柱神」が目的語で、「伊須受能宮」が場所を示す補語であろう。目的語が主語の位置に倒置されれば、それは受動文となるので、訳文は次のようになる。
<この二柱の神は、佐久久斯侶伊須受能宮に拝み祭られる。>
「古事記伝」での本居宣長の読みは、
<この二柱の神は、佐久久斯侶伊須受能宮に拝祭る。>
ここで問題になるのは「此二柱神」とは誰のことか書かれていないことである。本居宣長は「古事記伝」で、「大御神の御霊實の御鏡と思金神の御霊實とを指して申せり」と言うが、臣下である「思金神」など他姓の氏神を親祭で祭る事は淫祭となって神祭りの道理に合わないし、神宮側の史料にもそのような記載は全く無い。この文の直後には、
次登由宇気神、此者坐外宮之度相神者也
とあって、天武天皇の時代には、既に内宮と外宮に分かれていたと言う。その外宮の登由宇気神に呼応するのは、地上に降ろされた内宮の「天照大神」である。もう一柱の神は当然「神勅」の「神鏡」である。
西郷信綱氏は『古事記注釈』で「この二柱の神は、佐久久斯侶伊須受能宮“を”拝祭る。」と訳すが、基本的に、神は人に祭られる存在で、祭る存在では無い。実際に日々伊勢神宮を守っている神職は「荒木田神主」等であった。『皇太神宮儀式帳』に「爾時、太神宮禰宜、荒木田神主等遠祖、国摩大鹿嶋命孫、天見通命を禰宜定て」と言う。
そもそも「伊須受能宮(五十鈴の宮=伊勢神宮の内宮)」とは、まさに、この「二柱神」(伊勢国に降りた天照大神と神鏡)を祭るための施設である。特に天照大神への「日別朝夕大御饌祭」の食事の提供は、欠かすこと無く今日まで続く重要な行事となっている。「神祇令」の例祭にも天照大神の衣更え(年二回)のための「神衣祭」があって、そこに「伊勢神宮祭也」と言う。これらはそこに天照大神がいますが如くの扱いである。一方、「宮中」では、「神鏡(模造品)」のみを祭り、天照大神に対する親祭の新嘗祭や神今食などの時には、その都度、「高天原」ではなく、「伊勢国」より天照大神を勧請して行う。しかし、「神勅」の主旨から言えば、これらは宮中にあって親祭するものであって、外国の「伊勢国」にあってはならないものであろう。このため、ここで明言を避けたのではないか。
*【日別朝夕大御饌】:ひごとノあさゆうノおおみけ。『止由気宮儀式帳』に「爾時、大長谷天皇(雄略天皇)(中略)是以御饌殿造奉弖、天照坐皇太神乃朝乃大御饌、夕乃大御饌乎日別供奉」という。
*【神鏡(模造品)】:宮中には、新たに造られた神鏡が置かれた。『古語拾遺』に「至于礒城瑞垣朝(崇神天皇)、漸畏神威、同殿不安、故更令齋部氏、率石凝姥神裔、天目一箇神裔二氏、更鑄鏡、造劔、以爲護御璽。是[今」、践祚[ ]之日、所獻神璽鏡・劔也」と言う。
「地上に降りた思金神」について 2010/12/13 13:43
地上に降りた思金神は、プツッとその子孫の消息を絶つ。また彼だけでなく、手力男神や天石門別神達も同様である。これに変わって政事や祭事の表舞台に立つのが、現地編入組の大伴氏や物部氏である。天児屋命の子孫は、中臣氏を経て藤原氏となって、一緒に降臨したスタッフの中で一番繁栄を謳歌する。
思金神への神勅は、
「思金神者、取持前事為政。」
<思金神は、前の事を取り持って政(政事)を為せ>
であり、皇孫の為に「政事」を行う事であった。またこれは、「応神記」の子供達への「如我所思、即詔別者・・・」を見れば、
「大雀命執食国之政以白賜。宇遅能和紀郎子所知天津日継也。」
とあり、これは「天子」と「宰相」との役割分担を示すが、「大雀命執食国之政以白賜<大雀命は(宰相として)食国の政を執って(天皇に)もうしたまえ>」は、「思金神」への神勅と同じものであろう。
伊藤東涯著『制度通』に「漢のはじめに・・・国には王は事にあづからず。相を置いてこれを治む。・・・守、相ともに天子の官人なり」と言うが、この「相(宰相)」に当たる役割が、「思金神」の役割であろう。しかしながら思金神の子孫達の消息は、記録から消えている。「記紀」の「欠史八代」の中に、3世紀の卑弥呼や台与とともに埋没したかもしれない。また伊勢国に「神宮」が作られるのは「欠史八代」の後の崇神天皇を経ての垂仁天皇の頃である。この間に何らかの政変が起きたことを想像させられる。
「矣支加」と「副賜」について 2010/12/15
「原文」
① 「爾、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命、并五伴緒“矣支加”而天降也。」
② 「於是“副賜”・・・常世思金神、手力男神、天石門別神。」
上記は「古事記」の「天孫降臨」の段で相前後して記述される文ですが、ここで問題にしたいのは「矣支加」と「副賜」についてです。
先ず①の「矣支加」の「矣」についてですが、この読みの多くは「ヲ」でありますが、これは宣長の『古事記伝』「訓法の事」に、「矣を袁(ヲ)という辞に用ひたり・・・此例萬葉などにも多し・・・(後世には絶てなきことなり)・・・又ただ漢文の助字なるもあり。」とあり、現在の主な流通本は、これに従い安易に「ヲ」と読み過ごしていますが、これは重要な内容を含み、慎重な吟味が必要と思います。「古事記」で仮名の「を」については、「先言“阿那迩夜志、愛袁登古袁”<此十字以音。下効此>。」、「後、伊耶那岐命言“阿那迩夜志、愛袁登売袁”」と、字音にもとづく「袁」等が使用されます。「者」がその「字音」によらず「字義」により倭語の係り助詞の「は」と読むように、「矣」も「ヲ」と読む場合は、その「字音」ではなく、「字義」により「ヲ」と読むと思われる。
しかしこの場合は、漢文の助字の「矣」の意味が主に語句等の強調であるように、その用法に準じ、倭語の「間投助詞」として読むのが穏当で、「他動詞」の対象を示す「格助詞」の「ヲ」では不都合か。一応ここで「ゾ」と読んでおきます。そうなるとこの後の「加」は「他動詞」ではなく「自動詞」の可能性が出てくる。また②の様に①には、上位者から下位者への譲渡用語の「賜」が無いことを考慮に入れると、「自動詞」として「くははる」と読むべきか。「支」はというと、宣長が字義の一つである「分」を選択し、分配の「くまり」と読んでいるが(他に「わかち」)、しかし、ここは「ティッシュ配り」の様ではなく、字義の他の一つでもある「ささへ」が良いか。
「私見」<ここに、・・・ぞ、ささへ(に)くははりて、天降也>
【爾】:ここに。「古事記伝」に「“爾”此字は・・・許々爾(ここに)と訓べし」
つまり彼ら五伴神は自発的であり志願か。また本来なら重要な内容を含む②の文が、先に記述されても良さそうなものであるが、何故か①が先に記述されるのか。これは、①のメンバーは、天武天皇当時に仕えていた臣下の祖神であるが、②は、あるものは伊勢に流され、あるものは消息を絶たれたメンバーだからか。
「矣」の問題 2010/12/20
宣長の『古事記伝』「訓法の事」での「矣」の読みについての全文を上げ、改めてもう少し突っ込んでみます。
「矣を袁(ヲ)という辞に用ひたり。地矣阿多良斯登許曾(古事記)などの如し。此例萬葉などにも多し。【後世には絶てなきことなり】。又ただ漢文の助字なるもあり」。この「矣」の解釈は、宣長より前の人である伊藤東涯の「助字考」に、「此矣字作乎、看此亦一格也」とあり、これを参考にしたか。しかし同書は続けて「但不多用」とあります。また同書で漢文の助字としての説明は、「説文」は「語已詞」。「徐曰」で「矣者、直(チョク)、疾(シツ・同義語は速)」。「柳宗源曰」で「決辞也」。その他。つまり倭語で言えば、「間投助詞」や「終助詞」に相当し、「目的語」などに付く「格助詞」ではないと思われる。漢語字典の「漢典」に「矣;表示感嘆的語氣。表示已然的事。表示肯定的語氣。」とある。
<358>
武庫浦“乎” 榜転小舟 粟嶋“矣” 背尓見乍 乏小舟
むこのうら【を】 こぎたむるをぶね
あはしま【を】 そがひにみつつ
ともしきをぶね
この発句の「乎」は場所を示す「格助詞」で、三句目の「矣」は「間投助詞」か。
「猿女と猿田毘古」について
地上に降りたあとの天宇受売命と猿田毘古大神の記事を時系列で整理すれば、
① 天宇受売命は、「猿田毘古大神者・・・汝送奉。」と「亦、其神御名者、汝負仕奉。」の勅命を受ける。
② 猿田毘古大神が海中で溺死する(「沈溺海塩」)。
③ 猿田毘古大神を送り終える(「送猿田毘古神而還到」)。
④ 還った後、天宇受売命は、「海中」の「魚」達に服従を迫る。拒んだ海鼠(なまこ)は「以紐小刀、析其口」と口を小刀でさかれたと言う。*【析(セキ)】:さく。
上記の流れから見て、天宇受売命が猿田毘古大神を“何処”に送ったかと推測すれば、それは「あの世」であろう。
「欠史八代」について 2021.09.25補足
「記紀」には、時期も内容もともに一致して、俗に「欠史八代」と言われる期間がある。第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの期間である。この期間は、天皇としての系譜を載せるが、天皇としての事跡が無い。それで俗に「欠史八代」と言われる。初代の神武天皇の次からいきなり「欠史」とはおかしな話である。ここがもし創作なら、何か書きようがあるであろう。ここに、ただ系譜だけを書き連ねたのは、男性は天皇位(王位)につけなかったが、「宮家」的存在として天皇の血筋は繋いで来たと言うことであろう。つまり、この間の天皇号は後からの「追号」で有り、実際の王(天皇)は王家の血を引く女王が担ったものと思える。
古代倭国を記す「魏志倭人伝」での女王(卑弥呼、臺与)の時代がこの「欠史八代」の期間であろう。「魏志倭人伝」では「其國本亦以男子為王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼」と、初代が男王であったことを言う。後に男王である崇神天皇が即位し時に、彼は『古事記』に「謂所知初国之御真木天皇也」と記される。これは『日本書記』も同様である。十代(崇神)と十一代(垂仁)の天皇の時代に、「神鏡」は宮中から外国の伊勢国に出され、その地に伊勢神宮が誕生した(「日本書記」)。
『古事記』や『日本書紀』は、天皇位では無かった天皇の事跡は書けなかったのであろう。それで「欠史八代」状態となったものと思う。そして宰相として政事を担ったと思われる思金神の子孫の行方も不明となった。「神鏡」と「天照大神」を「伊勢国」に運んだとされる「倭姫命」のその後も不明である。『皇太神宮儀式帳』には「倭姫内親王、朝庭に参上き」と書かれるが、朝廷に戻ったようなことは「記紀」に記されない。
*『倭姫世記』に「倭姫命」の詳細が記されるが、これは鎌倉時代の内宮と外宮の論争の時に外宮側で作られた偽書と言える。詳細は『皇字沙汰文』(続群書類従)に載る。